
私は過去に野田村で開催された県主催の追悼式を除いては全出席です。(急な降雪による悪天候のため集合場所の盛岡市に約束の時間に着けなかったため断念したもの)
今年は県立大槌高校の阿部豊さんが、これからの震災の伝承について自らの考えを発表されました。阿部豊さんが言うように14歳以下の人は震災の記憶はない訳で、時間は物理的に冷酷に刻まれていることを実感しました。自分の中では震災の記憶がは鮮明すぎて逆に時間経過については疎かになっています。
貴重なこれまでの時間の流れの中で私の中で後悔していることがあります。それは被災地の産業振興についてです。
震災発災時からお隣の陸前高田市を訪問し、当時の戸羽市長とよく意見交換をしました。市役所は生活相談で手いっぱいだろうから、地域の産業振興については県を引っ張り出して使いまわすぐらいな方がいい。振興局を広域振興局に再編したのは産業振興の先端基地という意味合いがあるのだから躊躇なく相談してほしい旨を何度も伝えました。
その後の対応については市の独自な考え方もあり、私は住田町という林産材を大事にしている後背地を活用した自然エネルギー基地などもいかがかと提案しましたが、なかなか既存の考え方から突き抜けたダイナミックなところまで実行するには行き着きませんでした。
当時から人口の流出が一番の心配事であり、やはり震災地に新しい産業を作っていかないとという私なりの危機感でした。
しかし、国の産業振興への主たるメニューはグループ補助金であり、既存産業の維持が目標であったので、そうした余裕ある暇もなかったのも事実です。
しかし、こうした非常時にしかできないもの、国の実証実験場であったり、もっとやれることはありました。そこは広域で考えられる県こそが出番だったはずと思います。しかし、県は一切そういう野心的な考えを実行するにはほとんど至りませんでした。それどころかDIOジャパンなど質の悪い会社に傾倒し、被災地の足を引っ張ることになった事案もありました。
確かに、一部は以前よりも前進した例もありますが、この間の被災地の人口の社会減に歯止めがかからないことが結果として示しています。
今日も達増知事の式辞の中には産業振興がいかにも県が先導している雰囲気を出しています、現実に立ち返って反省するほうが先と私は思うのです。
これからもまだ一人暮らしの方の見守りや、継続して行うことはたくさんありますが、やはり暮らしの元である生活の糧を地域でいかに得られるかはもっと腰を入れてやるべき事と思います。