クリスマス季節前は現在もサラリーマン時代もとにかく忙しいことしか頭に浮かびません。
今回の記事も私の備忘録ですので、関心のない方はスルーされて下さい。
先日上京した折に三井倉庫時代(かれこれ35年も前)の先輩と同僚と会食したばかりということもあり、またフォーマン時代を思い出してしまいました。確かに年末を控えて忙しかったけれど、英国の上級船員がいる船にはクリスマスはやはり特別で船内の厨房からいい匂いが漂ってくるのでした。夜勤のシフトの時には気の利いたウオッチマンさんがこっそりと料理を調達してくれたこともありました。
私の担当船会社はこのブログで何度も登場しているUASC(United Arab Shipping Co.,)の在来船。プラント輸出が末期の頃で私の退職後にはほとんどプラント輸出がなくなりコンテナ船へと振り替わりました。
上の写真はUASCのKクラスという本船で、上が前期でスコットランドのGOVAN造船所製造、下が韓国のHYUNDAI造船所製造です。ジブクレーンが韓国製は改良されて機能的になりました。アラビアンガルフ向けプラント輸出が盛んになった頃にシュタルケンと呼ばれる重量物を吊れる大型デリックを備えた本船が必要となりました。Kクラスのシュタルケンは105tまで可能です。このシュタルケンを備えるために通常のデリックを備えることになり、これが実に荷役の機能性を落とすことになっていました。3番ハッチの荷役は艫の一基のクレーンしか対応できず大変苦労した記憶が残っています。けんか巻のデリックを使えないことはないのですが揚力が2.5tと低く、本船クルーもセットすることを好みませんでした。
ところが、同じ時期にガルフ向けに作られたP&O社の本船、Starath E,Fシリーズは実にかゆいところに手が届く設計の妙を得ています。
こちらのシュタルケンは何と揚力300t。さらにデリックを備える代わりに両サイドの支柱に5tのクレーンが各々2機づつ配置されています。このクレーンは実に機能的を発揮して荷役を活性化したことと推察します。Eクラスはポーランドのグダニスク造船所、Fクラスは三菱造船所と藤岡さんから聞きました。
私はFクラスに2〜3度しか乗船経験がなかったので記憶が定かではないですが、ジブクレーンの機能速度はKクラスの方が早かったと思います。
担当していた藤岡さんがいつもお話していたようにこうして写真で見てもStarath E,Fシリーズは船体が実に美しい。
コンテナ船は主流になった現在はこうした船体美を比較して楽しむこともなくなったと思います。
2022年12月21日
2022年02月22日
大型貨物の輸出全盛時代
昨年同時期に引き続き三井倉庫時代に担当したUASCの本船について記しておきます。
本人の備忘録程度なので興味のない方は軽く流してもらって結構です😵
ネット社会もかなり成熟してきたので、何の気なしにUASC「K」CLASSと検索してみましたら、出てきました!Kクラスの全ての全船名リストが!なおかつ造船所と廃船日まで記載されていました。35年ぶりの汗の記憶が蘇ります。
UASCは「UNITED ARAB Shipping Company」の略で,その前身は「Kuwait Shipping Company」という船会社になります。
推察するにクウエート国内だけの資本で経営していましたが、ペルシアンガルフ周辺国の石油開発が旺盛になり各々の国において近代的な石油プラント設置の必要性が出てきて、そこにプラント輸出の大きな波が現れたわけです。日本も三井物産が手掛けた(最後はイランーイラク戦争の影響で未完成で終わる)IJPCという大きなプロジェクトがありました。
そこで1974年から78年までにKuwait ShippinngとUASCはプラント輸出に適応する100tの重量物を揚力できる大型デリックを備え、船腹も増大したKクラス(クェートのKを冠した)を大量投入したという図式と見ました。オイルマネーをふんだんに活かした大型投資です。
前回のブログで30隻と書きましたが、今回のリストで43隻もあったことが判明しました。
私が知らない本船も存在したことが明らかになりました。「BLOCKS」「QAROUG」「DANAH」の3隻。
本船「DANAH」の画像がありました。韓国の造船所で製造された最後の3隻のうちの一隻で、私が横浜にいた4年間で一度も日本に来た記憶がないのでヨーロッパ航路専属だったのでしょう。
そして、新たな事実が判明しました。
私も乗船して働いたことのある本船「IBN AL BEITER」号は1986年12月23日にペルシャ湾を航行中に対空ミサイルの被弾を受けて沈没した。となっていました。私は当時在職中でしたが全くその事実は知りませんでした。船会社にとってもいい話ではないので外部にはあまり知らされなかったのかもしれません。
昭和から平成になって重量物の輸出などほとんどなくなり、貨物船はほとんどがコンテナ船に変わりました。令和の時代に入るとコロナ禍の影響でコンテナの流通が滞り、船の運賃はうなぎのぼりに上がっています。こんなことは誰が予想できたでしょうか。まさに経済は生き物。
大型投資をした「K」CLASSの船たちも21世紀の声を聞くと同時に廃船となりました。実働四半世紀。アラビア諸国の砂漠に火を灯した功績を残し、魂となった船たちは今の世をどのように見ているでしょうか。
本人の備忘録程度なので興味のない方は軽く流してもらって結構です😵
ネット社会もかなり成熟してきたので、何の気なしにUASC「K」CLASSと検索してみましたら、出てきました!Kクラスの全ての全船名リストが!なおかつ造船所と廃船日まで記載されていました。35年ぶりの汗の記憶が蘇ります。
UASCは「UNITED ARAB Shipping Company」の略で,その前身は「Kuwait Shipping Company」という船会社になります。
推察するにクウエート国内だけの資本で経営していましたが、ペルシアンガルフ周辺国の石油開発が旺盛になり各々の国において近代的な石油プラント設置の必要性が出てきて、そこにプラント輸出の大きな波が現れたわけです。日本も三井物産が手掛けた(最後はイランーイラク戦争の影響で未完成で終わる)IJPCという大きなプロジェクトがありました。
そこで1974年から78年までにKuwait ShippinngとUASCはプラント輸出に適応する100tの重量物を揚力できる大型デリックを備え、船腹も増大したKクラス(クェートのKを冠した)を大量投入したという図式と見ました。オイルマネーをふんだんに活かした大型投資です。
前回のブログで30隻と書きましたが、今回のリストで43隻もあったことが判明しました。
私が知らない本船も存在したことが明らかになりました。「BLOCKS」「QAROUG」「DANAH」の3隻。
本船「DANAH」の画像がありました。韓国の造船所で製造された最後の3隻のうちの一隻で、私が横浜にいた4年間で一度も日本に来た記憶がないのでヨーロッパ航路専属だったのでしょう。
そして、新たな事実が判明しました。
私も乗船して働いたことのある本船「IBN AL BEITER」号は1986年12月23日にペルシャ湾を航行中に対空ミサイルの被弾を受けて沈没した。となっていました。私は当時在職中でしたが全くその事実は知りませんでした。船会社にとってもいい話ではないので外部にはあまり知らされなかったのかもしれません。
【かつての本船イブンアルベイター号の雄姿】
昭和から平成になって重量物の輸出などほとんどなくなり、貨物船はほとんどがコンテナ船に変わりました。令和の時代に入るとコロナ禍の影響でコンテナの流通が滞り、船の運賃はうなぎのぼりに上がっています。こんなことは誰が予想できたでしょうか。まさに経済は生き物。
大型投資をした「K」CLASSの船たちも21世紀の声を聞くと同時に廃船となりました。実働四半世紀。アラビア諸国の砂漠に火を灯した功績を残し、魂となった船たちは今の世をどのように見ているでしょうか。
2021年02月21日
蘇る20代の頃の記憶
先日、倉庫で探し物をしていたら書類キャビネットの中に一つの書類が出てきた😞
三井倉庫時代に担当していた本船のストウェージプランだ。船会社のスーパーカーゴが書いたプランを自分が独自に修正して書いたプランだ。プランには荷積みする貨物を積んだ艀(はしけ)の船名も添えて書いてある。このプランを持っていたのも忘れていた。
そのプランの本船は IBN AL ATHEER 私が担当した船会社であるUASCのKクラスという船型の本船だ。Kクラスの本船は全部で30隻ほどあったと記憶している。
プラン作成の日付は1987年の8月となっている。実はこの頃からこの在来船Kクラスが活躍してきた中東向けのプラント輸出は陰りが出はじめて、貨物船はまもなくフルコンテナ船へと移行していく。まさに私が担当した4年間はKクラス本船にとっても最後の頃の航海だったと思う。
あれから40年余の時が流れ、港に関わる仕事も大きく変容した。上の写真にある艀(はしけ)業などは今でもなくなっているだろう。
人生の振り返るのにはまだ早いが、この頃、朝に乗船して組のウィンチマンが一斉にクレーンのスイッチを入れるキューンという独特な金属音は今だに覚えている。その音が仕事の始まりのサインであり、乗船している大勢の仕事人の活気がよみがえってくる。皆な若くて熱気があった。この船会社の仕事は気が抜けなかったが、緊張の中で集中力が研ぎ澄まされ、多くの人たちから多くのものを与えてもらい自信を得た。現在までの私の仕事に対する姿勢の基礎となっていることは間違いない。
最近ではネット社会の進展のおかげでKクラス導入以前の本船の画像も見ることができる。今ではこの本船で働いた人たちも少なくなっている。近いうちに関係者とゆっくりと話ができる日が機会があることを心から願いたい。
いずれにしてもかつての熱気が懐かしい。
三井倉庫時代に担当していた本船のストウェージプランだ。船会社のスーパーカーゴが書いたプランを自分が独自に修正して書いたプランだ。プランには荷積みする貨物を積んだ艀(はしけ)の船名も添えて書いてある。このプランを持っていたのも忘れていた。
そのプランの本船は IBN AL ATHEER 私が担当した船会社であるUASCのKクラスという船型の本船だ。Kクラスの本船は全部で30隻ほどあったと記憶している。
【神戸港で荷役中の本船IBN AL ATHEER 大型デリック、シュタルケンが稼働中】
プラン作成の日付は1987年の8月となっている。実はこの頃からこの在来船Kクラスが活躍してきた中東向けのプラント輸出は陰りが出はじめて、貨物船はまもなくフルコンテナ船へと移行していく。まさに私が担当した4年間はKクラス本船にとっても最後の頃の航海だったと思う。
あれから40年余の時が流れ、港に関わる仕事も大きく変容した。上の写真にある艀(はしけ)業などは今でもなくなっているだろう。
人生の振り返るのにはまだ早いが、この頃、朝に乗船して組のウィンチマンが一斉にクレーンのスイッチを入れるキューンという独特な金属音は今だに覚えている。その音が仕事の始まりのサインであり、乗船している大勢の仕事人の活気がよみがえってくる。皆な若くて熱気があった。この船会社の仕事は気が抜けなかったが、緊張の中で集中力が研ぎ澄まされ、多くの人たちから多くのものを与えてもらい自信を得た。現在までの私の仕事に対する姿勢の基礎となっていることは間違いない。
最近ではネット社会の進展のおかげでKクラス導入以前の本船の画像も見ることができる。今ではこの本船で働いた人たちも少なくなっている。近いうちに関係者とゆっくりと話ができる日が機会があることを心から願いたい。
いずれにしてもかつての熱気が懐かしい。
2019年12月25日
クリスマス・・・雑感
やっと見つけました😃。本船「Strath Fife」の画像。ということで記念アップ。今見てもシュタルケン横に表裏4つの5トンクレーンを備えたのはなかなかの機能性を発揮しますね。
この船で仕事の厳しさを知ることになりました。思い出に残る本船です。
以前アップしたEクラスよりFクラスの方が船体が長いのでしょうか。今度藤岡さんにお会いした時にじっくり聞きたいと思います。ファンネルマークの青に白地P&Oは垢抜けたものを今でも感じます。
クリスマス時期になると船内もお祝いムードが高まり、特にブリティッシュクルーの船では盛大にパーティーが催されました。
夜の荷役当番の時にごちそうの差し入れを頂き、ウオッチマン(警備員)さんと一緒に食べた記憶もだいぶセピア色に近くなってきました。ウオッチマンさんはいろいろな人生経験の方がいて、さまざまなことを教えてもらいました。荷役時間が大幅に短縮されたコンテナ船ではウオッチマンは不要になったと思います。効率化は経済的なメリットはありますが、人生の機微を接する機会など失うものもあるということですね。
サービスの高度化は時間制約がどんどん厳しくなることを含んでいます。いくら人工知能が発達しても最終的に問題を解決するのは人間。これからの時代、人間力を磨くためにあえてムダをつくる工夫も必要になるかもしれません。
私が横浜港で働いていた頃は日本のプラント輸出の終盤期。ガルフという単語は今や富よりも紛争のイメージが強くなってきました。常に社会は動いている。2020年代はその動きが急加速する10年になるのではないでしょうか。
2019年11月29日
ドイツ東西統一から30年
ベルリンの壁が破られ東西ドイツの統一が成立して30年の節目の年になった。
メディアでも東西ドイツの現況を特集し、東西格差がいまだに存在していることが報告されている。
私も東ドイツとの関わりが三井倉庫在職時代にあり、興味深く新聞記事を読んでいる。特に知人の毎日新聞の念佛記者は現在ベルリン在住で活躍中であり、最近特集記事が掲載されていたが現在のドイツの政治状況は所得格差と関係が深いことがよく理解できた。
三井倉庫は当時DSRという国営の船会社の横浜港における船内荷役を請け負っており、私は本担当ではなかったが、年に2〜3回は荷役監督を任されたことがある。
DSRの本船は写真の本船POTSDAMやLEIPZIGなど東ドイツの地名を冠した船名で、ほぼ同じ構造でドイツ国民性を表したように船もコンパクトで汎用性に優れていた。
船員は東ドイツ国籍の船員のみであり、ドイツ人は仕事に対して非常に真面目で荷役中にトラブルを生じた記憶はほとんどない。当時のポーランドやソ連など共産圏の本船には必ず女性の船員が乗船しており、仕事中に船内で見かけることはちょっとした楽しみでもあった。
夜勤の時などは時間に少しは時間に余裕があり、船員たちとカタコトのお互いの英語で上陸パスをもらって東京のどこを訪問した方がいいかなどという話し合いに参加したこともあった。東ドイツ船の楽しみは昼食をご馳走になれることで、ごくたまにアイスパインという豚肉の丸焼きに当たるととても嬉しかった。いい思い出である。
東ドイツ解体とともにDSRという船会社も解散し、今は影も形もない。あの頃の船員は今どういう職業についているのであろうか。
ドイツのハンブルグにはDESYという加速器・高エネルギー物理学の研究所があり、私はまだ未到達であるのでぜひ訪問したいと計画しているが、その機会には旧東ドイツのロストック港にもぜひ寄りたいと考えている。
メディアでも東西ドイツの現況を特集し、東西格差がいまだに存在していることが報告されている。
私も東ドイツとの関わりが三井倉庫在職時代にあり、興味深く新聞記事を読んでいる。特に知人の毎日新聞の念佛記者は現在ベルリン在住で活躍中であり、最近特集記事が掲載されていたが現在のドイツの政治状況は所得格差と関係が深いことがよく理解できた。
三井倉庫は当時DSRという国営の船会社の横浜港における船内荷役を請け負っており、私は本担当ではなかったが、年に2〜3回は荷役監督を任されたことがある。
【本船 POTSDAM(ポツダム)】
DSRの本船は写真の本船POTSDAMやLEIPZIGなど東ドイツの地名を冠した船名で、ほぼ同じ構造でドイツ国民性を表したように船もコンパクトで汎用性に優れていた。
船員は東ドイツ国籍の船員のみであり、ドイツ人は仕事に対して非常に真面目で荷役中にトラブルを生じた記憶はほとんどない。当時のポーランドやソ連など共産圏の本船には必ず女性の船員が乗船しており、仕事中に船内で見かけることはちょっとした楽しみでもあった。
夜勤の時などは時間に少しは時間に余裕があり、船員たちとカタコトのお互いの英語で上陸パスをもらって東京のどこを訪問した方がいいかなどという話し合いに参加したこともあった。東ドイツ船の楽しみは昼食をご馳走になれることで、ごくたまにアイスパインという豚肉の丸焼きに当たるととても嬉しかった。いい思い出である。
東ドイツ解体とともにDSRという船会社も解散し、今は影も形もない。あの頃の船員は今どういう職業についているのであろうか。
ドイツのハンブルグにはDESYという加速器・高エネルギー物理学の研究所があり、私はまだ未到達であるのでぜひ訪問したいと計画しているが、その機会には旧東ドイツのロストック港にもぜひ寄りたいと考えている。
2018年10月23日
KIWI ARROW
最近ニュージーランドに行くご縁がありまして、
突然に思い出した本船「KIWI ARROW」
以前にも紹介したGEAR BULK 社の本船名です。以前と言ってもかなり昔になりますが。検索システムで何気なく調べてみましたら、なんと同名のGEAR社の船が存在しておりました。
しかし、私の知っているオープンハッチのガントリークレーンの本船ではなく、ジブクレーンを備えたものに変身しておりました!もちろん私が三井倉庫で働いていた船ではなく名前だけ引き継がれて新しい船になったのですが。それにしても本船ガントリーからジブクレーンに変更するとはGRAR社の柔軟性に驚くばかりです。
ちなみにGEAR社を象徴する船は上の本船です。
そして二度ビックリはこの本船「HAWK ARROW」は1985年製で、私が乗船して働いていた船がいまだに現役で働いているではないですか!
本題に戻りますが、KIWIやNANDUなどニュージーランドに由来した本船は船員もニュージーランドと記憶しておりますが、船員とも別に親しくなったわけでもなく特に印象が残ってなくて、ただひたすらアルミインゴットやロールペーパーの荷役を早く終えるための効率ばかりを要求されて苦しい思い出ばかりでした。
加えてGEAR社以外に任された在来船のニュージーランド仕向けの本船は日本船籍のもので船員も日本人。これがまた日本人特性の年齢だけで人を判断する傾向がモロに出て陰湿なコミニケーションを日々強いられた記憶があるのです。
という過去の印象でありましたが、私にとって初ニュージーランド上陸は全く別の印象を与えてくれました。
報告の詳細は後日!!!
突然に思い出した本船「KIWI ARROW」
以前にも紹介したGEAR BULK 社の本船名です。以前と言ってもかなり昔になりますが。検索システムで何気なく調べてみましたら、なんと同名のGEAR社の船が存在しておりました。
しかし、私の知っているオープンハッチのガントリークレーンの本船ではなく、ジブクレーンを備えたものに変身しておりました!もちろん私が三井倉庫で働いていた船ではなく名前だけ引き継がれて新しい船になったのですが。それにしても本船ガントリーからジブクレーンに変更するとはGRAR社の柔軟性に驚くばかりです。
ちなみにGEAR社を象徴する船は上の本船です。
そして二度ビックリはこの本船「HAWK ARROW」は1985年製で、私が乗船して働いていた船がいまだに現役で働いているではないですか!
本題に戻りますが、KIWIやNANDUなどニュージーランドに由来した本船は船員もニュージーランドと記憶しておりますが、船員とも別に親しくなったわけでもなく特に印象が残ってなくて、ただひたすらアルミインゴットやロールペーパーの荷役を早く終えるための効率ばかりを要求されて苦しい思い出ばかりでした。
加えてGEAR社以外に任された在来船のニュージーランド仕向けの本船は日本船籍のもので船員も日本人。これがまた日本人特性の年齢だけで人を判断する傾向がモロに出て陰湿なコミニケーションを日々強いられた記憶があるのです。
という過去の印象でありましたが、私にとって初ニュージーランド上陸は全く別の印象を与えてくれました。
報告の詳細は後日!!!
2017年04月23日
メキシコとの思ひで
トランプ大統領の政策の目玉
・メキシコ国境に大きな壁をつくる
・自動車メーカーのメキシコ新規進出は認めない
メキシコが標的になってアメリカ移民の人たちは、安心して住める様子でない模様です。メキシコの人件費は米国国内と比して8分の1とか。結局トランプ旋風の瞬の嵐が去ればどちらも元に戻るのでしょう。国境壁はほとんど漫画みたいな発想で、徳川五代将軍綱吉の生類憐みの令の如く、あっという間に泡となる可能性大。
私のメキシコとの関わりは今は無きラインメキシカーナ。三井倉庫時代に準専属フォーマンとして仕事をさせてもらいました。クルーはすべてメキシコ人。英語は片言で通じたし、仕事もあまりトラブルのない船でした。日本からの輸出は機械製品や自動車部品が多かったでしょうか。荷物は大方コンテナでしたの横浜停泊に数は1日でクルーとの交流はほとんどありませんでした。
忘れられない思い出として本船横浜岸壁着岸と同時に税関の職員が大挙100名くらい乗船して、麻薬の取り締まりがあったことがありました。結局トイレの天井裏から発見されたとのこと。こういう事案は事前に情報が入るみたいです。
日本とメキシコの関係は良好でトヨタをはじめ多くの企業がメキシコに進出しています。私はメキシコはティファナ(サンデイエゴの隣)しか行った経験がありませんが、港のサリナクルーズなど訪れたい町です。
・メキシコ国境に大きな壁をつくる
・自動車メーカーのメキシコ新規進出は認めない
メキシコが標的になってアメリカ移民の人たちは、安心して住める様子でない模様です。メキシコの人件費は米国国内と比して8分の1とか。結局トランプ旋風の瞬の嵐が去ればどちらも元に戻るのでしょう。国境壁はほとんど漫画みたいな発想で、徳川五代将軍綱吉の生類憐みの令の如く、あっという間に泡となる可能性大。
【本船 Jalisco】
私のメキシコとの関わりは今は無きラインメキシカーナ。三井倉庫時代に準専属フォーマンとして仕事をさせてもらいました。クルーはすべてメキシコ人。英語は片言で通じたし、仕事もあまりトラブルのない船でした。日本からの輸出は機械製品や自動車部品が多かったでしょうか。荷物は大方コンテナでしたの横浜停泊に数は1日でクルーとの交流はほとんどありませんでした。
忘れられない思い出として本船横浜岸壁着岸と同時に税関の職員が大挙100名くらい乗船して、麻薬の取り締まりがあったことがありました。結局トイレの天井裏から発見されたとのこと。こういう事案は事前に情報が入るみたいです。
日本とメキシコの関係は良好でトヨタをはじめ多くの企業がメキシコに進出しています。私はメキシコはティファナ(サンデイエゴの隣)しか行った経験がありませんが、港のサリナクルーズなど訪れたい町です。
2013年10月30日
親方日の丸がダメなのを知る
このブログので気分を変えるために存在するカテゴリー【懐かしの船】
久々に登場する本船は、国営インド船「Vishva Anurag」
Vishva(ヴィシュヴァ)とは「栄光の・・・」という意だそうで、
「Vishva A・・・」と名乗る本船、すなわち同型の船は数種類存在しましたが、他の兄弟船は日本航路ではなく他の航路で働いていたようです。でも確か「Vishva Amber」は何回か横浜に寄港したか。
気分を変えるためと言っておきながら、私が三井倉庫在職中に「Vishva Anurag」は鹿児島沖近辺で沈没しました。
原因は積んでいた荷物が船内で移動したことによるとされています。その船に限らずインドへの輸出品は当時、鉄関係の荷が多く、パイプやコイル、プレートが多かったのですが、私もたまに担当した時に厄介な荷物で「湾曲させた鉄板」があって、荷物を動かないようにするためのラッシングにとても難儀した記憶はあります。運悪く時化に遭遇して「湾曲した鉄板」荷物が動いてしまい、船体のバランスを崩したのでしょう。
沈没後に海難裁判があって、担当したフォーマンも裁判に呼ばれることになって、かなりその方が神経質になっていたのも記憶しています。
この本船に限らず国営インド船会社(SCI)には沢山のことを教えてもらいました。
国営会社はろくなもんではない。
約束はいつでも破られる。
しかし、今、振り返ってみると、ビジネスの基本である「忍耐」を学んだのもこの船であり、本担当の別の本船では精神的な教訓はあまり得なかったことを思い起こすと、貴重な経験を積ませてもらったと思います。
仕事はほとんど思うとおりに進まなかったけれど、昼にご馳走になった本場のカレーと、とんでもなく甘いミルクティーと、ビールのつまみに最適なチャパティという煎餅のような食べ物は本当に美味かったです。
インド船の思い出はまた別の本船の時にまた紹介します。
2013年04月11日
初めての貨物船
4月のこの時期になると学校を出て社会人になった時をことを思い出します。
稼業の運送業と関係のある倉庫会社に入社したものの、任された仕事は外国船の船積み監督(フォーマン Foreman)という仕事。入社間もなくは船会社の代理店の仕事でしたが、フォーマンセクションの人手不足か事務系の仕事が不適格の烙印を押されたかのどちらか、もしくはどちらもで、頭よりも体力と気合を重視する方へと配属されたのでした。
それで先輩に連れられていった最初の船がフランスの船会社で西アフリカ航路の船で
C.R.Doulaという船でした。同じ航路をC.R.AbidjanとC.R.Librevilleの3隻で回していました。(後にC.R.Librevilleが外れてC.R.Poite Noireが参入)
当時の船の写真はなくて残念ですが、調べているといろいろな船会社を経ていまだ現役で頑張っているようです。当時の船は写真の配色とは似ても似つかぬ赤い船体にクレーンは純白で、とても海の青に映えたきれいな船でした。
後に自分がこの船の正担当となり、こちらの船会社の代理店のポートキャプテンには可愛がれてもらいました。この船に関してはいい思い出しかありません。
また、貨物の積荷責任者(スーパーカーゴアテンダント)はフランス人で、彼らと仕事の合間にいろいろなおしゃべりを交わしたのも今となっては自分の世界観を広げるのに大変役に立っています。
士官クラスはフランス人でクルーがアフリカ諸国という船員構成でしたが、一隻だけオールフランス人というのがあって、フランスの方は3時間も昼休みに時間を使い、挙句に食事をする部屋に鍵をかけられて、食事中は一切仕事とは隔絶の状態で、肝心の打ち合わせが出来なくて困ったことがよくありました。
東ドイツの船もたまに担当しましたが、フランス人とドイツ人とではこうも仕事に対する取組姿勢が違うのかとしみじみ実感させられました。
私が新入社員で入社したのも今から約30年前。最近のフォーマンは女性もいるとかで、そのような話を聞くと月日の流れを感じます。
赤と白の船体の写真を見つけました(2013.8.24)ので追加します。
稼業の運送業と関係のある倉庫会社に入社したものの、任された仕事は外国船の船積み監督(フォーマン Foreman)という仕事。入社間もなくは船会社の代理店の仕事でしたが、フォーマンセクションの人手不足か事務系の仕事が不適格の烙印を押されたかのどちらか、もしくはどちらもで、頭よりも体力と気合を重視する方へと配属されたのでした。
それで先輩に連れられていった最初の船がフランスの船会社で西アフリカ航路の船で
C.R.Doulaという船でした。同じ航路をC.R.AbidjanとC.R.Librevilleの3隻で回していました。(後にC.R.Librevilleが外れてC.R.Poite Noireが参入)
当時の船の写真はなくて残念ですが、調べているといろいろな船会社を経ていまだ現役で頑張っているようです。当時の船は写真の配色とは似ても似つかぬ赤い船体にクレーンは純白で、とても海の青に映えたきれいな船でした。
後に自分がこの船の正担当となり、こちらの船会社の代理店のポートキャプテンには可愛がれてもらいました。この船に関してはいい思い出しかありません。
また、貨物の積荷責任者(スーパーカーゴアテンダント)はフランス人で、彼らと仕事の合間にいろいろなおしゃべりを交わしたのも今となっては自分の世界観を広げるのに大変役に立っています。
士官クラスはフランス人でクルーがアフリカ諸国という船員構成でしたが、一隻だけオールフランス人というのがあって、フランスの方は3時間も昼休みに時間を使い、挙句に食事をする部屋に鍵をかけられて、食事中は一切仕事とは隔絶の状態で、肝心の打ち合わせが出来なくて困ったことがよくありました。
東ドイツの船もたまに担当しましたが、フランス人とドイツ人とではこうも仕事に対する取組姿勢が違うのかとしみじみ実感させられました。
私が新入社員で入社したのも今から約30年前。最近のフォーマンは女性もいるとかで、そのような話を聞くと月日の流れを感じます。
赤と白の船体の写真を見つけました(2013.8.24)ので追加します。
2012年08月27日
仕事の終わりを感じない船
連日暑い日が続きます。こうした疲れの抜けない日ということで思い起こす船。
正式な担当の船会社ではありませんでしたが、スポットのヘルプでよく行かされた船。
はっきり言って、いい思い出のある船ではありません。
頻繁にトラブルがあったことしか思い出せない。そしてやらされ感が充満していた。
(本船ガントリークレーン故障、ツイストロック不足、アンフレンドリーなクルー)
インド船と並び「忍耐」を学ぶ上では大変いい機会を与えてもらったと解釈しよう。
数少ないいい思い出といえば、GBCSという北米向けのコンテナサービスを始めた時に、船内でパーティーが催されキャビア入りのサンドウィッチをたらふくご馳走になったことは記憶してます。
船会社の合従連衡が進む中、この船会社は健在で世界中の海を今でも頑張っているようです。バルクカーゴ(単一荷姿の荷物)写真のランバーやアルミインゴット、ロールペーパー等に特化した船で、船自体の機能の原型を大事にする会社なので、船型を変えることなく地方港にもニーズによって寄港する可能性が高いかもしれません。
釜石港や大船渡港が復興した時に寄港する機会があったら懐かしさは自然にこみあげてくるかもしれません。
【本船 Cormorant Arrow 】
正式な担当の船会社ではありませんでしたが、スポットのヘルプでよく行かされた船。
はっきり言って、いい思い出のある船ではありません。
頻繁にトラブルがあったことしか思い出せない。そしてやらされ感が充満していた。
(本船ガントリークレーン故障、ツイストロック不足、アンフレンドリーなクルー)
インド船と並び「忍耐」を学ぶ上では大変いい機会を与えてもらったと解釈しよう。
数少ないいい思い出といえば、GBCSという北米向けのコンテナサービスを始めた時に、船内でパーティーが催されキャビア入りのサンドウィッチをたらふくご馳走になったことは記憶してます。
船会社の合従連衡が進む中、この船会社は健在で世界中の海を今でも頑張っているようです。バルクカーゴ(単一荷姿の荷物)写真のランバーやアルミインゴット、ロールペーパー等に特化した船で、船自体の機能の原型を大事にする会社なので、船型を変えることなく地方港にもニーズによって寄港する可能性が高いかもしれません。
釜石港や大船渡港が復興した時に寄港する機会があったら懐かしさは自然にこみあげてくるかもしれません。
2012年05月25日
祝!社長就任(予定)
私が4年間お世話になった三井倉庫(株)で新社長が誕生するとの情報を耳にしました。
社長予定者(6月の株主総会で正式に決定)は私が横浜支店で大変お世話になった藤岡 圭氏。
藤岡さんと思い出は短い間でありましたが、本当に沢山あります。
身近の先輩として公私共にお世話になった方が社長になるとは大変喜ばしい限りです。
藤岡さんおめでとうございます。
正式に就任の折にはあらためてお慶びを申し上げたいと思います。
藤岡さんとはUASCやSCI、GBCSの船でもニコイチで仕事を教えてもらいましたが、なんといっても藤岡さんと言えばP&Oの船でした。スーパーカーゴのウィルス氏と仕事の打ち合わせをしている光景は眩しかったですね。
写真はEクラスの船ですが、シュタルケンの横に5トンのクレーンがそれぞれあるのが特徴。これとほぼ同じ型(と思われる)Fクラスの船で初夜勤を経験。その時にセカンドオフィサーと英語での会話が通じなくて本当に悔しい思いをしました。それが契機で社会人としての自覚と仕事への取り組みが変わってきたと思います。
この船は在職中にP&Oから船籍が変わって横浜港では3回ほどしか仕事をしませんでしが、この船で8ギャングくらい動かしたかったですね。航路が私が担当していたUASCと同じアラビアンガルフでしたので中東向けのプラント輸出が下火になったので荷を集めるのが難しくなったでの航路撤退したのでしょう。
心残りなのは藤岡さんの結婚式の二次会を私が任されてのでしたが、気の利いた企画も出来ずにただの飲み会にしてしまったこと。あの時は今ほど心に余裕がありませんでしたからね。
思い出は尽きませんが、ぜひとも藤岡さんにはわが国の物流に新風を吹き込んで頂きたいと思っております。
内輪ネタで失礼しました。
社長予定者(6月の株主総会で正式に決定)は私が横浜支店で大変お世話になった藤岡 圭氏。
藤岡さんと思い出は短い間でありましたが、本当に沢山あります。
身近の先輩として公私共にお世話になった方が社長になるとは大変喜ばしい限りです。
藤岡さんおめでとうございます。
正式に就任の折にはあらためてお慶びを申し上げたいと思います。
藤岡さんとはUASCやSCI、GBCSの船でもニコイチで仕事を教えてもらいましたが、なんといっても藤岡さんと言えばP&Oの船でした。スーパーカーゴのウィルス氏と仕事の打ち合わせをしている光景は眩しかったですね。
写真はEクラスの船ですが、シュタルケンの横に5トンのクレーンがそれぞれあるのが特徴。これとほぼ同じ型(と思われる)Fクラスの船で初夜勤を経験。その時にセカンドオフィサーと英語での会話が通じなくて本当に悔しい思いをしました。それが契機で社会人としての自覚と仕事への取り組みが変わってきたと思います。
この船は在職中にP&Oから船籍が変わって横浜港では3回ほどしか仕事をしませんでしが、この船で8ギャングくらい動かしたかったですね。航路が私が担当していたUASCと同じアラビアンガルフでしたので中東向けのプラント輸出が下火になったので荷を集めるのが難しくなったでの航路撤退したのでしょう。
心残りなのは藤岡さんの結婚式の二次会を私が任されてのでしたが、気の利いた企画も出来ずにただの飲み会にしてしまったこと。あの時は今ほど心に余裕がありませんでしたからね。
思い出は尽きませんが、ぜひとも藤岡さんにはわが国の物流に新風を吹き込んで頂きたいと思っております。
内輪ネタで失礼しました。
2012年03月29日
修行と自信と
【本船 IBN HAYYAN】
3月末は年度末。4月に入社した新入社員が、今度は新たに新入社員を迎えるという微妙な時期であります。
この船はちょうど今の季節に私が初めて在来船で1万トンクラスの積荷を任せられた船で、とても印象に残っている船です。その前の夏の暑い季節にF岡さんという先輩と一緒に仕事をして鍛えられた本船でもありました。
1980年代半ば位まで日本の商社のプラント輸出が残っていて、この船会社では東芝の火力発電所のプラントをせっせと何度もクウェートまで運んだのでした。今日では韓国や中国がこの手の大型プラントの輸出に競争力をつけてきて隔世の感があります。
1万トンのブレークバルクを積み終わって、出航していった時は充実感に溢れていました。
鍛えられ、育てられ、自信をつけ そこで人間は成長していくものなんですね。
当時のことを思い起こすと周りで支えてくれた人達に対して感謝の念にかられます。
今、私に置かれている立場で何をすべきか、また考えさせられてくれたる思い出の本船でした。
2012年01月31日
タイ国と日本
先週に頼んでおいたメガネが出来上がり、さっそくかけて目を慣らしています。
なぜ慣らすのか? とうとう遠近両用メガネが必要になったからです。
ここ最近、新聞や本を読むときにメガネを外した方が読むのが楽になり、いちいち外すのが面倒になってきましたので思い切って購入することにしました。まぁそれなりの年齢になりましたから。
眼鏡店主の話ですと、昨年のタイ国の大洪水でメガネフレームの生産がストップしてしまい、影響を受けた所もあったとか。メガネフレームに限らず自動車産業や製作機械など、コストダウンのためにタイに拠点を移した企業は大きな影響が出ました。
タイ国は今やシンガポールや香港に匹敵するアジアとヨーロッパとの物流拠点にもなりつつあります。国民も仏教徒が多く勤勉であり、また山田長政来日本との交流の歴史もありますから日本企業を受け入れやすい環境が整っています。
外交面でも中国を牽制する意味においてわが国と東南アジア各国との連携の重要さはその重きをさらに増してくるでしょう。
先週久しぶりに三井倉庫時代の同期と旧交を温む機会がありましたが、このタイ国の船の話題で盛り上がりました。私は当時担当ではありませんでしたが、2〜3度応援に行ったことがありました。
25年前の輸入品は冷凍エビやタピオカ(荷役作業員の頭が真っ白になりました)輸出品はピックアップトラックや小型トラックの半完成品、カーゴノックダウン(CKD)でありました。
今や現地で自動車も生産が可能になり、隔世の感があります。
お昼ご飯を船でご馳走になり、初めて食べたタイのうどん(砂糖をまぶして食べる)の味は忘れられないです。
なぜ慣らすのか? とうとう遠近両用メガネが必要になったからです。
ここ最近、新聞や本を読むときにメガネを外した方が読むのが楽になり、いちいち外すのが面倒になってきましたので思い切って購入することにしました。まぁそれなりの年齢になりましたから。
眼鏡店主の話ですと、昨年のタイ国の大洪水でメガネフレームの生産がストップしてしまい、影響を受けた所もあったとか。メガネフレームに限らず自動車産業や製作機械など、コストダウンのためにタイに拠点を移した企業は大きな影響が出ました。
タイ国は今やシンガポールや香港に匹敵するアジアとヨーロッパとの物流拠点にもなりつつあります。国民も仏教徒が多く勤勉であり、また山田長政来日本との交流の歴史もありますから日本企業を受け入れやすい環境が整っています。
外交面でも中国を牽制する意味においてわが国と東南アジア各国との連携の重要さはその重きをさらに増してくるでしょう。
【本船Pipat Samut 船会社Thai Maritimeの船】
先週久しぶりに三井倉庫時代の同期と旧交を温む機会がありましたが、このタイ国の船の話題で盛り上がりました。私は当時担当ではありませんでしたが、2〜3度応援に行ったことがありました。
25年前の輸入品は冷凍エビやタピオカ(荷役作業員の頭が真っ白になりました)輸出品はピックアップトラックや小型トラックの半完成品、カーゴノックダウン(CKD)でありました。
今や現地で自動車も生産が可能になり、隔世の感があります。
お昼ご飯を船でご馳走になり、初めて食べたタイのうどん(砂糖をまぶして食べる)の味は忘れられないです。
2011年12月24日
25年前のクリスマスイヴ
【IBN TUFAIL】
三井倉庫に在職中、年末になると必ず横浜港に来る自分が担当だったUASC(United Arab Shippinng Co.)の本船。
この船会社はアラブ諸国の船籍(クェートとかカタールとか)でしたが、船員はパキスタン等からの出稼ぎ集で上仕官はイギリス人というパターン。
イギリス人との仕事はオンとオフとのけじめがはっきりしていたし、何しろ仕事のパートナーがの年齢に関係なく対等に対応してれたので困ったことはありませんでした。(国籍的にいうと日本人が一番厄介でした・・・)
船には国籍特有の匂いがあって、UASCの船はクルーがインド系が多かったので香辛料の匂いでしたがクリスマス時期は特別な馳走が用意されて肉系ソースの甘い感じに変わりました。
荷役を年末までに終わらせなければならない厳しい日程で、普段はやらない夜荷役も敢行されました。
日程がタイトの上に荷もなかなか揃わない、ギャングもキツイ、重いハッチのクレーンが故障・・・などなど想定外の事が起きましたが何とか積荷を積んで次の港へ出航へと仕事とはいえ関係者総出でよくやったものだと思います。
すでに写真の船も廃船となりました。今はこのような一般貨物船は見かけなくなりました。私にとってこのUASCの船の荷役監督をさせてもらったのは人生の経験で本当の宝です。
2011年11月23日
立川談志さんにまつわる思ひ出
立川談志さんが亡くなられた。享年75歳。
私は偶然談志さんに会って話をしたことがある。
三井倉庫に入社して三年目の春だったと記憶している。今から25年も前のことだ。
なんと会ったその場所は外国貨物船の船上にて。
私が担当していた「UASC(United Arab Shippinng Co.)」のKクラスの本船で、通常のシュタルケン付ではなく40トンジェミニクレーンタイプだったから船名は「IBN BAJJAH」だと思う。
週末を挟んで、乗船したらインド系の英国人のチーフオフィサー(私が関わったC/Oでベスト3に入るナイスガイで、運よく彼とは3回一緒に仕事をした)から「昨日、鎌倉に足を伸ばして遊びに行ったら、談志というエンターテイナーに会った。奴は有名か?」と尋ねられ、「そうだ!」と応えたら「今晩彼を呼んでパーティーをするから、お前も来い。」と誘われた。船上でのパーティーは船長の許可がなくては開かれないので、彼はよほど信頼のおける男だったのだろう。船会社の人間にもスーパーカーゴアテンダントにも誘いがなく、仕事関係者で私だけに誘いがあったのでとても嬉しかった記憶がある。
その晩、作業服ではないスーツ姿で夕方に乗船したら、とんでもないお祭りがすでに始まっていた。
談志氏が10人以上も芸人を引き連れてきて、上へ下への大騒ぎ。貨物船の部屋の広さは限られているので、あちこちの部屋でマジックあり、歌あり、ダンスあり。談志氏はすでにベロンベロンに酔っ払っていてただただ皆と(主に上級仕官は英国人)と一緒になって騒いでいた。私は何しろ芸能人と一緒に酒を飲むなんて機会も初めてなので緊張しながら場を楽しんでいた。
談志氏の名前がでると必ずあの日を思い出す。そういえばいつもは交通に不便な大黒埠頭に停泊するこの船が、市街地に近い山下埠頭に接岸したのも何かの因縁だったのか。
談志師匠も亡くなられてしまい、頻繁には思い出すことはなくなるかもしれないけれど、あの愉快な夕べの船上の秘密パーティーのことは一生忘れられない思い出だ。
私は偶然談志さんに会って話をしたことがある。
三井倉庫に入社して三年目の春だったと記憶している。今から25年も前のことだ。
なんと会ったその場所は外国貨物船の船上にて。
私が担当していた「UASC(United Arab Shippinng Co.)」のKクラスの本船で、通常のシュタルケン付ではなく40トンジェミニクレーンタイプだったから船名は「IBN BAJJAH」だと思う。
【ネット検索したら画像がありました 本船「IBN BAJJAH」(感激・・・涙)】
週末を挟んで、乗船したらインド系の英国人のチーフオフィサー(私が関わったC/Oでベスト3に入るナイスガイで、運よく彼とは3回一緒に仕事をした)から「昨日、鎌倉に足を伸ばして遊びに行ったら、談志というエンターテイナーに会った。奴は有名か?」と尋ねられ、「そうだ!」と応えたら「今晩彼を呼んでパーティーをするから、お前も来い。」と誘われた。船上でのパーティーは船長の許可がなくては開かれないので、彼はよほど信頼のおける男だったのだろう。船会社の人間にもスーパーカーゴアテンダントにも誘いがなく、仕事関係者で私だけに誘いがあったのでとても嬉しかった記憶がある。
その晩、作業服ではないスーツ姿で夕方に乗船したら、とんでもないお祭りがすでに始まっていた。
談志氏が10人以上も芸人を引き連れてきて、上へ下への大騒ぎ。貨物船の部屋の広さは限られているので、あちこちの部屋でマジックあり、歌あり、ダンスあり。談志氏はすでにベロンベロンに酔っ払っていてただただ皆と(主に上級仕官は英国人)と一緒になって騒いでいた。私は何しろ芸能人と一緒に酒を飲むなんて機会も初めてなので緊張しながら場を楽しんでいた。
談志氏の名前がでると必ずあの日を思い出す。そういえばいつもは交通に不便な大黒埠頭に停泊するこの船が、市街地に近い山下埠頭に接岸したのも何かの因縁だったのか。
談志師匠も亡くなられてしまい、頻繁には思い出すことはなくなるかもしれないけれど、あの愉快な夕べの船上の秘密パーティーのことは一生忘れられない思い出だ。