
享年89歳。
とても悲しいお別れでした。火入れの際、参列者からは「どうもありがとう」の声、男性からは涙、多くの女性から慟哭が漏れました。
松川さんは若くして昭和39年1月に町議会議員になられており、私の祖父武雄とも接点があります(祖父は昭和47年1月まで大東町議)。父忠雄は松川さんとはほぼ同年代なので菅原喜重郎氏との関係で深い関りがありました。そういうご縁で私は県議選に出馬する時の後見人を務めて頂くなど言葉で言い尽くせぬほどの面倒を見て頂きました。
世間一般には毒舌でよく知られていますが、人とのご縁をとても大事にする方で人情家、熱愛家でした。
政治の本質を極めており、折に触れてご示唆を頂戴しました。歴史・文化・芸術・スポーツにも精通しており、残すべきものについては豊富な人脈を駆使して自ら動いて形を残されました。この点は大いに松川さんの本領を発揮された分野だと思います。
時折、一線を越えるギリギリの発言をして、周囲に冷や汗をかかせましたが、実は恥ずかしがり屋で、私のワイフが大東町摺沢で主催したILCの講演会で昼食を用意してますのでどうぞと進めると「昼飯は昨日食ったがらいい」とか、私と会うといつも「よっ!どごがで見たごどのある摺沢の旦那さん」という言い回しをされる方でした。
大東町長の小原伸元さんと同様に親子ほどの年齢差があっても決して上から目線で説教することはなく、大事な話をするときは立場をわきまえる方でした。豪放磊落のように見えて内面は気配りをきっちりしておられました。
松川さん、小原さん、室根の小山寛さん、3首長は皆昭和10年生まれで意思疎通が抜群でした。加えて川崎の千葉荘村長と東山、大東は鉄の結束「砂鉄川連合」で平成の市町村合併時には各々のキャラクターを生かして、特に松川さんの剛腕で現在の一関市合併をリードしたと私は思います。(平泉町を入れられなかったのはかなり残念に思っておられましたが)
同年生まれの伸元さんと寛さんが時を大体同じくして逝去され、この時はちょっとご本人も落ち込んだとみえ、私に「俺より早く死ぬなよ」と予想外の言葉を投げかけられ、私はかなり当惑したことを思い出されます。
昨年の12月末に東京で安治川部屋のパーティーがあり、同席したのが最後になってしまいました。あの太い声の本音トークが聞けなくなるのはとても残念です。
多くの方に愛を降り注がれた松川さん。お疲れ様でした。また大変にお世話になりました。
松川さんから頂いたご温情は私も次の世代につないでいきたいと思います。松川さんが心血注いでこられたILCの実現、新笹ノ田トンネルの実現、引き続き頑張ります。
心からご冥福をお祈り致します。合掌。