一関市大東町の地域協同体・摺沢振興会と市、摺沢市民センターではJR大船渡線摺沢駅の駅舎脇に建立されている佐藤秀蔵・良平翁頌徳碑のそばに説明版を設置することを企画し、本日除幕式が行われました。

【除幕された瞬間!】

【頌徳碑の右側に設置された佐藤秀蔵翁の説明文】

【来賓祝辞の指名を頂きました。空が青い!】

佐藤秀蔵、良平親子は大東町摺沢出身。
秀蔵氏は貴族院、良平氏は衆議院の議員になり、私財をも投じて大船渡線の建設に尽力された大功労者です。
昭和31年5月に有志により建立された頌徳碑は以前は摺沢駅前の東側に設置されていましたが、平成11年に完成した摺沢駅とコミニティーセンターの合築により今の場所に移転しました。移転前には私が小学生の頃には夏休みに子供会で頌徳碑の清掃をよくしたものです。時間の経過とともに判読も困難な箇所が出てきたり、当時の表現や旧字が使用されたこともあり、この度説明版を設置することが企画されました。
大船渡線の歴史に関して研究を続けている菅原良太氏の資料によると、大船渡線が開業に至るまでには明治期には二回にわたり民間での鉄道建設が計画されたが失効した経過もありました。しかし、大正7年に当時の政友会と憲政会の対立と政党拡張という背景もあり、国による鉄道計画(一関〜気仙沼間の国有軽便鉄道敷設案)が可決されたのでした。
大正7年9月に政友会総裁・原敬内閣がスタート。大正9年5月の衆議院選挙の際に第7区(両磐地区)地盤の柵瀬軍之佐(憲政会)の対抗馬として摺沢の佐藤良平氏が出馬し当選。鉄道問題(経由地を明記しない)が大いに政友会に傾いた要因になっていたようです。
摺沢駅の誕生は摺沢地区はもとより大東地区に大きな経済発展をもたらし、半世紀前は駅周辺は大変な賑わいでした。
しかし、現在のJRのB/Cの考え方が示され、輸送実績が急激に落ち込んでいる大船渡線も存続の危機に直面しています。100周年を契機にマイレール意識の高揚、ILCの実現も見据えた地域産業の振興を皆で考え実行していきましょうと祝辞で述べました。
温故知新の精神で案内板を設置されたことを契機に一つ一つできることを住民が動いていくことを期待したいです。
【関連する記事】