確かに可能性が広がったという点では大谷選手の大活躍がアメリカ社会で受け入れられていることは大きな前進と捉えていいことなのだが。
便利で整然とした秩序ある社会に向かうことは誰もがそのように望んでいるはずなのだが、人間が人間としてあるべき姿は果たしてどうなのだろうか。
例えば1970年代の我が国の活力ある時代を思い出すと、妙になつかしくもあり、一日でいいから戻って触れてみたい気もする。モーレツ社員などが代表されるようにバイタリティ溢れることが象徴的で社会だった。
こんな直角の座席で夜行を走っていた列車。通路にまであふれる人。今ではとうてい考えられないし、経験したこのない若い人たちには絶対に無理だろう。
しかし、活力はいいけれど、さらに記憶をたどると粗野で暴力的な大人がいて、特に迷惑を被った女性は数知れず。そういった影の部分があったのも事実。
函館空港に着陸し、アメリカに亡命した旧ソ連のベレンコ中尉が初めてアメリカ社会に入った時に、まるで現実ではない作りものの世界という表現をした。そして、アメリカで暮らしているうちに母国の陰鬱で不衛生な泥にまみれた旧ソ連の生活が無性に懐かしく感じる意識が芽生えたと話したテレビ番組が思い出された。
時代が人を作るとよく言われるが、闇バイトなど普通に考えればおかしいと思うより欲の方が先に出る社会が本当に成熟した社会なのか、考えさせられる事象が頭を悩ませる。その結果、単純で元気な社会に憧れを抱くのかもしれない。でも、現実には絶対にその時代には戻れないのだ。結局、その時代に生きている人間が解決していく道しかない。
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