早いもので私も政治の世界に入り四半世紀の時を数えました。
国会議員との出会いもこの世界入ったことにより一般の人たちよりも機会が多いと思います。その中でも世間でも有名な小沢一郎氏は私の政治の世界に入る際の大きな判断の材料になりました。
これから書くことは私と小沢一郎氏との接点により私が感じたことですので、意図的にデフォルメを施したものでは決してありません。
この先もう小沢一郎氏のことを記すことはまずないと思われるので、この機会に自分自身の備忘録も兼ねて記したいと思います。
時は平成6年の頃に遡ります。私の父、忠雄は無所属で昭和62年に東磐井選挙区から県議会議員に初当選しました。平成6年に小沢一郎氏が自民党を飛び出し、新しい政党をつくりました。父が連携をしていた東山町出身の菅原喜重郎氏も新しい政党に参画したため父も決断を迫られました。元々政党色を鮮明にせず無所属を標榜したことは大東町の政治勢力を分断させないことも目的としていたため父もかなり迷った様子でした。しかし、新生党から新進党となった当時の勢いは飛ぶ鳥を落とすほどの勢いで、小沢一郎氏の秘書からも参画せねば対立候補を出すと再三にわたって強く促されました。結局、父は平成7年の県議選は新進党公認で出馬。当選をしたものの知事選との連動で当時の小沢氏の秘書から連日矢のような指示命令と対応を迫られたのが影響で体調を乱し、闘病の末、平成9年1月に逝去するに至りました。平成7年から平成11年までの4年間は父のように北上の片方盛先生など逝去された県議が異常なほど多かった期でした。
父は新進党籍のまま現職県議で亡くなったのですが、小沢氏の葬儀出席は、上記の経緯や入院時にもご本人や秘書から一切見舞いの言葉も行動もなかったこともあり母と私は丁重に断りを入れさせてもらいました。増田知事からは是非に弔辞を上げさせてほしいとの言葉を受け入れて、立派な弔辞を頂戴しました。
初盆の季節が近づき、町内の小沢支持者の方々が小沢一郎氏を連れてお焼香に来家されました。断る理由もないのでお迎えをしましたが、仏壇に焼香後ご本人からは母と私に対して一言も発することもなく、速やかにお帰りになりました。後に連れて来られたのが不本意だったのだと知りました。
(その後、私が県議になり、小沢一郎氏の支援県議の重鎮だった及川幸郎県議の葬儀の際も、当日秋田に政務があるということで葬儀前にささっと焼香をされて葬儀会場を後にした姿を見た時に、我が家で見た光景が蘇りました。小沢直系の県議にもこのような仕儀をしたのを見て小沢氏の人間性、評価が私の中で確定しました。)
私は父の代理で平成7年にある方の結婚式に出席した時に、ちょっと声をかけられたのを最後に今日の今日まで一度も会話をしたこともありません。ご縁がなかったということなのでしょう。
平成10年の夏。新進党から自由党になっていた頃、小沢氏の支持者の方々から自由党での県議出馬の要請を受けましたが、生意気にも出馬するなら無所属でと即答しました。3日後に同じ町内から公認候補者が出馬することが報道され、菅原喜重郎氏も自由党に参画していたので支持者がねじれた激戦になりましたが、勝ち抜くことができました。
無所属との判断は、父の入院中にあった衆議院選挙、町長選挙の中に入り、手段を選ばぬ集票手法に疑問を感じたこと。また平成10年7月に行われてた椎名素夫氏の参議院選挙の戦いぶりに感銘受け、これこそ真の選挙の在り様だと感じいったことにあります。また、当時の大東町が政治的に分断されていたことに対して私なりに旗幟を鮮明にすれば不幸な歴史がくりかえされるとも考えました。父が悩み経験したことが私の体の中に残っていたのだと思います。
椎名素夫氏とは私が入会した増田知事を支える県議会会派「政和会」との関係も良好で、県議会の開催の度毎に増田知事、椎名素夫氏、政和会のメンバーとの交流が図られました。
葬儀の話題に付言すると、椎名氏は支持者であった藤沢町議の岩渕維雄氏の葬儀では自ら弔辞を述べられ、法要の席まで出席され、故人に対しての感謝と地方自治に貢献された尊敬の意を示されました。私は小沢氏と椎名氏との対比に愕然とし、椎名氏への畏敬の念はますます深まりました。
その後、椎名氏からはILCに関して示唆を受け、それは私の最大の政策課題になっています。
私は選挙に関していえば候補者と有権者が信頼をつなぐことだ常々思っています。かって私が目の前で見た恐怖や指示一辺倒で人を動かす方法は私の主義と決して相容れるものではありません。現在がどうかは知る由もありませんが。
政治とカネをめぐる問題が今選挙の争点となっています。自民党が組織ぐるみで政治資金を還流し、帳簿に記載しなかったことは責めを負うべきものだと私も思います。しかし、政治資金規正法違反という点においては小沢氏は過去に群を抜いた額で秘書が起訴された事実があります。過去の事実は過ぎ去ったものとして敵方を攻める手法を堂々と行っている姿はとても奇異に見えて仕方ありません。このようなやり方がまかり通れば政治は決して成熟していかないと思います。
2024年10月23日
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