達増知事は2月16日の知事演述の結びで「今年、岩手県は県政150周年を迎えました。」と言い切りました。
それは盛岡県が岩手県に名称を変更した明治5年(1872年)を起源とした発言です。
岩手県の県境が確定したのは明治9年(1876年)です。私たちが住んでいる県南地区(旧伊達藩領)は明治9年に岩手県に編入されました。
確かに今から50年前、岩手県政100周年の祝賀式典は、昭和47年(1972年)に行っていますが、
私が問題としているのは達増知事がいとも平然と今年は150周年と言明し、後に編入された盛岡県以外の地域に何の配慮も示さなかったこと。これは今後の盛岡地域以外の地域振興策にも大きく影響する話なのです。
これをあっさり150周年ですか、そうですね。と流すわけにはいかない。歴史認識だけにとどまらない問題です。
現に岩手県のホームページで「岩手県のあゆみ」の中で以下のように記載されています。
近世、四つの藩、明治維新
近世の岩手県は、北半は南部氏の盛岡藩領、南半は伊達氏の仙台藩領となりました。後に盛岡藩から八戸藩、仙台藩から一関藩が独立し、4つの藩から構成されていました。
明治時代に入り、維新直後は岩手県の行政区画は目まぐるしく変わりましたが、最終的には明治9年(1876年)5月に現在の県域が決定しました。岩手県誕生の記念すべき年です。
参考までに以下のデータを記しておきます。
明治4年(1871年)盛岡県は6郡494村で構成され、
人口319、486人 石高:25万3千石
明治4年(1871年)磐井県は4郡188村で構成され、
人口207、478人 石高:44万石
人口こそ10万人強の差があれど石高は20万石弱の差があった事実を我々はこの際よく知るべきです。
宮城県も150周年を迎えましたが、宮城県と岩手県は旧藩との兼ね合いがあり、まったく内容が違うのです。
達増知事が歴史事実ををしっかと認識したうえで、旧盛岡県以外の地域にも思いを寄せ、150周年事業を宮城県のように記念事業を物販に結びつけるなどの経済誘発事業案を出したなら私はこれほどこだわる必要はなかったでしょう。
知事の発する表現や言葉の重みは大きいのです。
【初代県議会議長の写真を指して明治9年が真の岩手の誕生であることを主張する】
先の、ふるさと振興部の部局審査でこれら点を質しましたが、部長答弁はまず初年度である令和4年度の産業などの推移をパネル展示することなど事業内容と紹介し、後年何をするのかについては言明できませんでした。あくまで推察ですが、知事の思いつきで始まった150周年事業と思われます。
【答弁する熊谷ふるさと振興部長】
私はこの件で旧藩地域の分断をするつもりはまったくありません。
先人が多くの苦難を乗り越えて現在の岩手県をつくってきたことを重く考えれば考えるほど、安直に150周年を迎えましたとの発言は容認できないのです。ふるさと振興部長が「明治9年は本県にとって重みのある年」との答弁は重く受け止めたいとは思いますが、いまだにスッキリしないのも事実です。
したがって私は令和4年が県政147周年として呼称してまいります。