明治から昭和の20年代終わりまで人口の増大に伴い食料の確保のために条件が悪い中山間地でも新田開発が行われてきました。それはなんのことはない、生きていくためです。
私の自宅は祖父が薪炭業を伯父から受け継いだ時から、荷出し移出に便利な国鉄駅前にありましたが、その駅前街でも周りは田んぼに囲まれていました。駅前といっても町屋からちょっと離れたところに位置していましたので夏などは大量の虫が辺りを飛び回っていました。わざわざ田んぼの畦道を歩いて学校から帰宅したり、冬季には田んぼの中に入って凧揚げをしたり、春の高校野球が始まると近くの子たちと三角ベースに興じたり、まさに田んぼは生活に身近な存在でした。それは耕作者の方が年中しっかりと管理をしていたからです。
私が議員になった20年くらい前から休耕田がじわじわと増え始め、田んぼの所有者も高齢化によって自らの耕作が困難になり、人に頼むケースが多くなりました。それでもなんとか人頼みでも耕作だけは続けてきたのですが・・・

この写真は私の家から道ひとつ隔てたところにある田んぼです。所有者のご家族は遠くに住んでおり、自宅も今は誰も住んでいません。以前は土地を貸して耕作していましたが、借り手の方も高齢を理由に耕作はすでに10年ほど前にやめています。
以前は自治会の環境整備活動で対応する地域もありましたが、今は自治会にもそんな余力はありません。
普段は車窓から見下ろす田んぼですが、田んぼに降り立ち、自分の目線で見ると、すでに手の施しようなく繁っている身の丈2メートル以上にもなる草木に圧倒されました。と、同時にこうした風景の拡大が予想されることにあらためて愕然としました。
当該地は駅にも近く便利な場所にあるので将来は宅地化の可能性は高いですが、他地区の沢奥の水田は間違いなく放置されていくのでしょう。
人口の激減はこうした場面に顕在化していきます。
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