日本の成長を主導した中央官庁は、バブル経済崩壊前後から内外環境の変化に対応しきれない実態が明らかになった。組織内の論理が組織外での非常識となる中、従来の手法や既得権益にこだわり、政策上のミスや不手際が相次ぐ。
刑事事件に詳しい弁護士は「これまで組織を揺るがす大問題にならなかったのは、検察が刑事司法という閉じられた世界にいたからだ」と指摘する。他省庁と違い、業界や市民などとのかかわりが薄かったことで、検察組織は守られた。捜査の中立を図るため与えられた強い独立性は、外からの監視を受けないことと裏表の関係だった。
閉鎖性に風穴を開けたのは一連の司法改革だったといっていい。検察は起訴権限を独占し、犯罪事実があったとしても起訴するかしないかを決める裁量まで持っていたが、市民から選ばれる検察審査会に09年、強制起訴権限が付与された。それ以降、同審査会を意識した起訴や、実際に議決を受けた強制起訴も出始め、検察の独占は崩れた。
そして同年スタートの裁判員裁判で「市民の目」が取り調べ段階での調書より法廷でのやり取りを重視する公判への移行を迫る。それまで同じ司法のプロ仲間として、検察の起訴を100%近い有罪率で追認してきた裁判所も対応を変え始めた。
【2010年11月 日本経済新聞電子版】
無謬性(むびゅうせい)という単語を調べていたら過去のこの記事にヒットした。
この記事は裁判員制度の導入による司法制度改革について書かれた記事であるが、アンダーラインを引いたところは県行政にも十分に当てはまる。無謬性とは決して自分たちは間違っていないという所から始まり、結果が伴わなくても決して間違っていないという、いわば役所の不文律みなたいなものである。
過去に私たちが追及した「大雪りばあねっと事案」「DIOジャパン事案」などは絶対に県は自らの非を認めなかった。その結果、現在の市町村との信頼関係がギクシャクしていることにもつながっている大きな要因になっている。
この記事で指摘している外からの監視とは、県行政における県議会が大きな役目を担っているわけで、無謬性の打破には我々の努力が不可欠だということを改めて認識した。もちろん県組織の部署、職員の中には前を向いて問題意識を持って仕事している職員も存在しているのは承知しているが、立場が変わると組織(知事?)を守るために豹変する方がいるのも事実。私はそんな自己保守に軸足を置いているものにはこれからも監視の手を決して緩めない。
2019年11月13日
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