2017年02月07日
郷土の偉人を知る
(公社)岩手県トラック協会一関支部の事業者研修会の合間に「文化講演会」があり、明治史研究家 平野恵一氏による「一関の誇り 高平小五郎」を聴講しました。
高平小五郎は、一関市出身の偉人。明治38年日露戦争後のポーツマス講和会議に外務大臣 小村寿太郎とともに全権委員として出席し、条約の締結に尽力。その後男爵の爵位を与えられ、貴族院議員を務め、明治41年には駐米大使となり外交部門で活躍した郷土の偉人です。
高平小五郎は在ヨーロッパ(イタリア、オーストリア)の公司という立場ながら、日清戦争に関するヨーロッパ列強の動静や三国干渉にドイツが参加した真相を時の政府に伝え、伊藤博文総理大臣はこれら報告書・情報を高く評価し、「高平の外交文学」とまで称したことが紹介されました。
高平の適時適切な情報が日清・日露戦争後のわが国の方向性を決める重要なものであったことが窺えます。
また、明治29年には大隈重信外務大臣に外交建白書を提出し
1.外交と軍事は同等である
2.外交には金がかかる
3.外交には泥縄式は通じない、日頃の努力が必要
との見識を示しました
在アメリカ特命全権大使の頃には今では有名な首都ワシントン、ポトマック河畔に「日本桜」を大量に移植することに合意をしたのも高平と初めて知りました。
その後も「高平・ルート協定」と称された第二次世界大戦まで世界で合意されたアジアの枠組み「ワシントン体制」は「中国に対する九ヶ国条約」に反映されます。
明治、大正と激動する世界情勢の中で実務者以上の外交貢献が認められる高平小五郎ですが、歴史的に評価が低いのは故意に評価を下げる論評などが世に流布したとの平野氏の分析でありました。
おぼろげな記憶として高平小五郎が郷土の偉人ということは知っていましたが、改めてその偉業に触れるとともにこの地に今住む我々がしっかりと偉業を称え、顕彰していかねばならないと強く思った次第です。
この記事へのコメント
コメントを書く