2016年05月17日

市民(citizen)を育てるのは政治の責任

諸外国を視察し政治家と意見交換し政治の責任、市民の責任という話題になると、市民が果たすべき責任の重さの意識やそれを育てようとする社会の重層的な仕組みに驚かされる。ここでいう市民とは自治体を構成する市民という意味ではなく、社会を構成する人間としての責任という意味である。西欧では封建制度を倒し、従属的身分から国民が国を治める共和制の存立がそれを基礎としている。ところが、我が国は歴史上勝ち取った民主主義ではないことから市民という意識がそもそも育つ土壌が貧困だったのも背景にある。それを補うのが政治の責任と思うのだが、国の政党政治の成熟化はおぼつかなく、市民の育成に対して責任を果たしていない現状がある。

喫緊の例をあげれば、社会保障の財源確保ために消費税を充てることを三党合意したはずなのに最近の民進党の政調会長の発言は公党としての責任を放棄したとも思える政府口撃一辺倒であり、まったく解せない。これでは政権を任せられる政党とは言えない。その場かぎりの国民の関心を煽るだけでは国民の意識は育たない。

政治が成熟化するには、自民党と対峙しつつも国益を維持するための主幹的な政策については政党の対立を超えた政策協議を建設的に行えるリベラルな位置の政党の存在は必要と考えるが、期待に応えられる政党の成長が見られないのは不幸な状態である。

今回の参議院選挙は野党共闘だというが、たとえ選挙に勝利したとしても、野党共闘での選挙後の将来の展望は見えにくい。覇権主義を唱える中国を隣国睦まじくといった政党と同一歩調取れるのか?外交政策のみならず政策的な立ち位置がまったく異なるどうしがどうやっていくのか。結局、共闘を主導した共産党に来る衆院選では野党協力を引き出され、小選挙区での一本化に対応せざるをえず、野党第一党としての発展が阻害されるだけではないのか。これでは大局的な見地に立った政党の成熟には寄与しないのではないか。


それにつけても県民党の看板を立てた達増知事が、野党候補の選任にも意見する姿には違和感を禁じえない。この方は自身の政治的欲望の方が県民利益より上位にあるようだ。達増知事の県民党の看板は羊頭狗肉ということはもはや明確。県民党とはもはや言ってほしくない。
posted by 飯沢ただし at 23:50| 岩手 ☁| Comment(0) | My Opinion 【意見を申す】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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