以前にも書いたようなような気がしますが、日本人はもっと合理的に生きられないのかと思います。
ひとつ例を挙げればコンビニエンスストア。
コンビニの機能は競争激化とともに格段にサービスの種類も数を増し、「便利な店」のごとく便利な存在でたいがいのことは用を足せます。震災時には遠方から支援に来てくれた方々にとってはCDがあったのはとても助かったそうです。
ところが、コンビニエンスストアは今は24時間営業が当たり前。
朝も夜も休む間もなく店を開けていることは、最小限の在庫しか持たない店には何回も配送車が訪れることになります。
日本全国一律な24時間営業の営業方針。結果、深夜まで環境に余計な負荷をかける電飾や配送車の往復。
本当に消費者がそこまで望んでいるのだろうかと思うほどの過剰なサービス競争がこうした社会現象をつくっています。
どこでも同じ規格、同じ営業時間が客の信用を呼ぶというのは安易すぎやしないか。
いらぬ過度の競争の次に来るのは容赦ないコストカット。そのしわ寄せがどこに来るかと言えば
まちがいなく力の弱い先へと向かいます。
この構図でいくと経済的な勝者決まっているのですが、人間社会を良き方向へ導いた真の勝者と成りえたのかとよく考えたらそうにはなっていない。結局、余裕のない経済社会といらぬ環境負荷を「便利さ」の裏につくったに過ぎないのではないか。
コンビニはほんの一例ですが、便利になった社会の裏に作られた闇はとても深いものがあるように最近思えてなりません。日本人の悪い癖はサービスをとことんまで突き詰めてしまう。時として世の中のバランスだとか合理性を排除してまで行きつくことを平気で行ってしまう。
成熟化した社会に求められるのは市民(Citizen)が、こうした事象にヒステリックにならずに思慮深く対処し、市民運動として静かに良識を広めていくことではないでしょうか。
川崎の中学生のリンチによる痛ましい事件は、そうした社会の余裕の無さが私は遠因とも感じています。
2015年03月13日
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