2015年02月07日

千年の時を経て歴史の糸は結ばれる

今日もいろいろな会に参加しました。
午後から@北方領土返還要求岩手県大会⇒A岩手県トラック協会一関支部事業者研修会と新年会⇒
B北銀摺沢支店経友会新年会。
午前中には県から2月定例議会に提案予定の条例議案の説明をもらいました。

さて、今日はAの会で興味深い文化講演があり、興味深い内容でしたので、ここに記しておきたいと思います。
演題は「奥州藤原氏と平泉都市圏について」
講師は 一関博物館 館長 兼 東北大学名誉教授の 入間田 宣夫 氏
三項目を中心に講話されました。

1.都市「平泉のにぎわい」
2.葛西氏の五郡二保とは
3.金色堂はなぜ残ったのか

そのうち 2について記しておきます。

P1030258x.jpg


ペン平泉は泰衡が鎌倉に攻められ死亡したときに、平泉全体が焼失されたに印象づけられているが、さに非ず。焼失したのは「柳の御所」のみで中尊寺、毛越寺をはじめ平泉の町のほとんどは残った。

ペン奥州藤原氏滅亡後、鎌倉幕府から陸奥国御家人として葛西氏が領主として任命される。

ペン奥州藤原氏が滅亡後も平泉文化生活圏は特別行政区として平泉都市圏として存続した。それが葛西本所五郡二保
それは江刺・胆沢(伊沢)・気仙・磐井(岩井)・牡鹿の5郡と磐井郡にある興田保黄海保の2保を指す。

ペン興味深いのは旧東磐井郡のうち千厩町奥玉の奥玉保(京都藤原氏の流れを汲む鎌倉の二階堂氏の所領)と一関市萩荘の高鞍荘(京都藤原氏の荘園)は鎌倉時代は葛西氏の所領に含まれなかった。

ペン物流は北上川を利用することが不可欠であったため、河口部地帯の所領が絶対条件となる。それが飛び地の牡鹿郡。

ペン当時の東北地方の主たる生活文化圏は平泉の中心部の「磐井郡(鎮守府)」と多賀城国府のあった「宮城郡(国府)」の2つのみ。

以上の内容から総合的に考察すると、平泉は鎌倉幕府に攻めれらた時をもって歴史的に断絶している印象ですが、実際のところは藤原三代の栄華のピークは去ったものの中世の文化圏として存在していた。このことは新鮮な発見でした。その史実を未来へと関連付けるともっと楽しくなります。それはILCを実現せんとする主な地域が葛西氏の5郡2保の地域であることです。千年の時を経て「平泉都市圏」は再度光を放つことになるからです。

平泉周辺の歴史をもっと知りたくなりました。
posted by 飯沢ただし at 00:32| 岩手 ☀| Comment(0) | My Boom【密かなマイブーム】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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