
この件は、当時広域ガレキ処理の受け入れについて議論になっていた時期に発生した事案でした。
正確な科学的根拠によるものではない事象が独り歩きをして、ひいては、その風評が広域処理の妨げになることを問題視し、「地域政党いわて」では及川あつし幹事長が中心となって、京都市に対して正しい情報発信を求めて申し入れを行った経緯があります。地域政党京都党にも協力を要請し、市議会においても議論の発信源になって頂きました。
頂いた資料から問題を整理します。
1 経過
(1)平成23年6月、東日本大震災の津波で倒れた陸前高田市の高田松原の松を護摩気として、現地において遺族の思いや被災者の復興等のメッセージを書き入れ、それを京都に送って大文字の送り火で焚いてはどうかとの大分市の美術家の呼びかけに、大文字保存会が受け入れを決定した。
(2)平成23年7月上旬に、この計画を報道で知った市民や近隣府県住民から松の放射線汚染を心配する意見が市や保存会に寄せられた。
(3)同じ頃、東北地方では牛の飼料である稲藁への汚染拡大が世上の問題になっていたこともあって、市民の不安を払拭するため、保存会において放射能検査を行うよう市に要請し、現地において護摩木から検体を採取して、7月末に検査した。その結果、放射性ヨウ素、セシウムは検出されなかった(8月4日)
(4)一方、保存会内部では、検査の実施前から不安の声があり、その不安を払拭できず、検査結果を待たずに送り火として焚くことを中止決定された。(8月3日臨時理事会で決定、翌4日市へ報告。)
(5)中止の報告を受けた市では保存会の決定事項であり、現地協力者の了解も得られていること。また、保存会が迎え火や志納文の書き写しを行うなど丁寧に対応され、現地の思いを届けようと計画されていることを考慮し、中止撤回の要請はしなかった。
(6)保存会での受け入れが中止になったことに、市民、被災者、全国の方々から大変多くの批判、心配の意見が市・保存会に寄せられた。
ということで実際に予定された陸前高田の薪はこの時点で一本も京都まで運ばれていません。
(7)このような状態になっていることを心配した市民や市民団体が何とかしたいという思いから、8月15日に市役所前で開催される「平和・鎮魂のイベント」において、燃やしてはどうかという提案を受けた。護摩木の一部を取り寄せることを要請したが実現しなかったため、民間のプロジェクトと連携を図り、陸前高田市から別の薪500本を取り寄せることとなった。五山各保存会にも協力を要請し、全山から了承を得た。(8月11日)
(8)8月11日に運ばれた薪500本を、念のため放射能測定検査を実施したところ、幹部分からは検出されなかったが、樹皮部分からセシウム1130bq/kgが検出され、少しでも放射能が検出されれば実施しないことにひていたので中止を決定せざるを得なかった。
(9)取り寄せた薪については西京区にある旧機械室において、最終処分方法が決定するまで一時保管している。なお、放射能については、自然界と計測される数値と同程度であり安全に保管している。
ということで当初想定していた護摩木ではない、全く別の薪が京都市役所に届き、念のため放射能検査したところ樹皮に基準値を超えた値が検出されたということなのです。
どうやら京都市や保存会の側から見ると外部からの動きにかなり振り回されたというのが実態なのですが、発信力のある京都市であるが故に市のスタンスが経過の中でブレたことに端を発した諸問題について京都党が京都市会の議会活動の中で厳しく指摘をしています。
京都党2012年5月の緊急声明
被災地からの視点で行動して頂いた京都党の活動と地域政党いわての要請が行政を動かし、
京都市は薪の取扱方針を発表します。
(1)薪は京都市が独自で取り寄せたものであり、京都市の責任において取扱いを決める。五山の送り火で焚くことは考えていない。
(2)セシウムの検出されていない幹の部分を使って、鎮魂、慰霊、復興支援の思いを込めた工芸品を作る。
(京都市長の発案と伺う)
(3)その他の部分についての取り扱いについては、今しばらく時間をかけて検討したい。
工芸品の作製は
〇 学校法人 二本松学院(京都美術工芸大学や京都伝統工芸大学校を運営)
〇 みやこ杣木(そまぎ)(京都市地域産材)の活用で森林の健全化、林業の活性化に取り組むグループの有志
の2団体が申し出をされ作成をお願いすることとなり、


完成した彫刻20体と色紙色立て2点と、他に仏教会から頂戴した色紙6点が昨年の11月8日に陸前高田市に京都市が訪問し、届けています。
さらに彫刻161体が陸前高田市の普門寺に今年の4月に寄贈されました。
関係者の努力の甲斐があってここまで落ちきましたことに敬意を表します、が、いまだに樹皮は機械室に保管されている状態です。
今回の騒動の反省点として京都市からは
@ 騒動になってから、大文字保存会と京都市の距離感を詰めなかったこと。意思の疎通はしっかりとすべきであった。
A 市で取り寄せた薪がどのような状態で来るのか判明するのは不可能であったが、途中でしっかりコミットする必要はなかったか
の発言がありました。
一時期騒動とはなりましたが、結果として陸前高田と京都市の遠距離の中で、被災地の復興を思いながら実現しようとする心の架け橋は築けたと確信致しました。問題の積み残しはありますが、その課題を洗い出し、今後とも互いに協力し、一日も早い復興に務めねばと心を新たにしました。
この後に京都市東日本大震災支援本部から
東日本大震災に係る京都市の支援活動等の報告を頂きました。
