私の以前の自宅は摺沢駅から歩いて3分の至近距離にあり、列車が走るレールの軋む音は日常の生活の音の一部でした。蒸気機関車が走っていた頃、ある夏の日、汗まみれになった機関士さんが台所の御勝手口に訪れ、母に水を一杯所望し、ひしゃくで一気においしそうに飲み干した場面は鮮明に記憶しています。
摺沢駅は庭のような存在でした。大船渡線は高校時代に通学で3年間利用するのですが、何といっても摺沢駅にまつわる思い出の方が懐かしく数多くあります。中でも小学生の頃の摺沢駅は利用客が多く、駅前の広場にはバスやタクシーが何台も待機していたものでした。小学校低学年の頃は大東高校の通学生が多く、列車の到着時間と登校時間がかち合うと高校生の人の波にもまれて前に進めず遅刻しそうになったことは何度もありました。高校生は例外なく汗の匂いが凄かった記憶は鮮烈です(女学生も)。駅前子ども会では夏休みの活動で顕彰碑の掃除をしていました。

時は昭和40年代。祖母からチッキを渡され小荷物を引取りに行ったことも何回もあります。荷物は生け花用の生花で、当時の国鉄の駅員さんは不愛想で、いつも面倒くさそうな対応なので子ども心にこの役目は億劫でした。駅の売店にはよく買い物に行き、私は常連で売店のおばさんにはいつもよくしてもらいました。夏の時期は小遣い銭を持つとアイスを買いに走り、高学年になると毎週週間ジャンプを買いに行きました。祖父や父のたばこ、週刊誌、切手など親によく頼まれました。田舎の駅には珍しい噴水式のジュース自販機があり、ちょっとだけ都会の洗練された雰囲気に接した気分になりました。後にコーラの自販機に変わります。駅の待合室には通勤客、高校生、大きな荷物を背負ったしょいこの行商のお母さん、営業マンなどいろいろな人たちが混在していました。自家用車が普及する前なので移動手段は鉄道が主体の時代でした。短期間だけ立ち食い蕎麦をやったときもありました。

貨物列車の引き込み線がまだ残存しており、貨物用の仮置き場があり、そこでよく遊んだ記憶があります。ホームから転落して痛い思いをしたこともありました。三沢高校が決勝再試合のした時にタクシーの運転手さんが仕事そっちのけで真剣にラジオ観戦して一喜一憂していた光景も思い出されます。
昭和40年代は人が多く、活気に満ち溢れていた時代でした。半世紀の時が流れ、いまや摺沢駅は駅員のいない駅になり、隔世の感は否めません。あの頃には戻れませんが、人情に接した摺沢駅の思い出は心の故郷(ふるさと)です。