昨日、父親の代からずっとお世話になった小崎福雄さんの葬儀があり、何とか法要の席には間に合い、福雄さんの思い出話を話す機会を頂きました。とても悲しいことでしたが、心を込めて話をしました。
その晩、寝床に入ったら父とのことをピンポイントで思い出しました。昼間に話をしたことがきっかけでしょう。
1970年3月、小学校2年生の春休みの頃、祖母を羽田に迎えに行くことが目的で父は私を東京まで連れていってくれた思い出です。


記憶に残る初めての摺沢駅を夜に出発する列車旅。それも仙台からは寝台列車です。ワクワクしない訳がありません。
参考とした時刻表は昭和39年発行の東海道新幹線開通前の復刻版👆です。多少年月は経っていますが、大きくは変わってないはずです。
19時15分大船渡線摺沢駅を急行むろね2号で一ノ関駅まで。一ノ関駅からは同車両は東北本線乗り入れで急行くりこま3号になります。
仙台駅着が21時43分着。仙台駅からは23時25分発、寝台列車北星に乗車して上野駅着が翌朝の6時18分。仙台駅での待ち時間を含めると11時間の往路でした。北星は一ノ関駅も停車しますが、コストと効率を考えた行程になったと推察されます。
上野駅に着くなり、父から便所に連れていかされ、ここで「大」を済ませと命令されました。ところがその「大」専用の便所は10以上も並列にあり、そして各々に10人以上が列をなしている異常な光景でした。そもそも便意はないし異常な光景の恐れをなした少年は「今は出ない・・」と小声で言うのが精いっぱいの父への抵抗。「なんだ!」と怒られました。その後都内の移動中に地下鉄駅の静かな清潔な便所で無事に用は足したのでした。
上野で祖父が懇意にしている田中家を訪問しご機嫌伺い。東京の街には半ズボンの子を発見して驚きました。まさにテレビで観ていたチャコちゃんケンちゃんの世界。こちらはギッチリ下ズボンをはいているのに😖。羽田は夜の到着なので、時間潰しのため東京タワー🗼と後楽園(父はボクシングを観たかったが当日は試合なし)を引き回しです。後楽園ではペラペラの外れ車券のゴミ嵐の異常光景(その2)は鮮烈に記憶しています。田舎では絶対にみることが出来ません。東京タワー🗼では漫画家さんに肖像画を描いてもらいました。
浜松町からはモノレール🚝移動。生まれて初めて下りのエスカレーターに乗りました。便の到着は遅れに遅れて羽田空港での待機時間は長く、馬場と猪木がまだ一緒だった日本プロレスをカラーテレビで観戦。途中で見知らぬ男の子が画面を遮り、父が「ボク、そこどいてくれる」と聞きなれない標準語で、しかも予想もできない「ボク」という単語を父が発したことに驚き!でした。
結局、その晩は急遽上野に宿を取ることになり一泊。当初の予定は夜行で帰る予定だったのだろうか!(そうだったらかなりの弾丸ツアー😵)
翌日は昼頃の上野駅発の急行で一路帰宅路へ。上野駅では、ばあさんが私の手を放して一人で乗り場へ行ってしまい、私は上野駅で迷子となることに。かなりの時間を構内をさ迷っていて捜していた父にグイっと手を引かれ無事に列車に間に合いました。危なく私は誰かに攫われて海外に売り飛ばされるところでした。当時は始発となればホームに入線する時間が早くて、席の争奪戦が繰り広げられて時代なので出発まで余裕がありました。
帰りは常磐線経由だと思いますが定かではありません。車中にばあさんから香港のコインをもらいました。初めての海外の貨幣に触れた瞬間です。今でも大事に保管しています。右側のコインはエリザベス女王以前のジョージ6世ですから古いものです。
ところが残念ながら不思議なことに東京で何を食べたか一切記憶がありません。
以上55年前の父との思い出に残る上京の旅でした。今では懐かしい直角の椅子に12時間以上も座る旅はもう日本ではできません。
この旅以降1979年の3月まで上京の機会はありませんでした。ゆえに匡少年の非日常のオンパレードだったこの記憶は鮮明なのです。《終》
posted by 飯沢ただし at 11:58| 岩手 ☀|
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