2025年02月28日

大船渡市における山林火事への対応

大船渡市で大規模な山林火災が発生しました。お亡くなりになられた方には心からご冥福を申し上げ、被災されている市民の方々にはお見舞い申し上げます。災害現場で懸命な活動をされておられる皆様方には事故に気をつけての活動をお願い致します。

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【2月27日、28日の岩手日報朝刊2面より】


26日の本会議中、上原康樹議員の一般質問が後半にさしかかった頃、議長席にいた私は左側の執行部席が少し動きがあったのを察知し、議会事務局長に確認していたところ、2分後くらいに事務局長からメモが差し込まれました。

大船渡市で新たな大規模な山林火災(昨日までの綾里、小友地区は鎮圧されていた)が発生し、質問の途中ではあるが、本会議を中断を求める内容。即座に私は休憩を宣じました。

実は午前中に工藤議長とは自衛隊への派遣要請等が必要な災害が起こった場合は本会議を止めることも想定しなければと打ち合わせをしたばかりでした。

一昨日の流れは、議長が議長室で新たな火災発生を知る⇒住家に燃え移ったているのを映像で目視確認⇒迅速な県執行部の本部員会議が必要となることを想定⇒県執行部と確認作業⇒本会議の暫時休憩することを確認、決定⇒メモが差し込まれる

工藤議長に危機管理意識がなければ成し得ない対応でした。その後県は本部員会議を設置。翌日には県議会も災害対策連絡本部を設置したところです。

大船渡市の林野火災はすでに1200haが焼失したと発表され、まだ延焼中とのことでいずれ行政、議会とも現場の消火活動を見守りつつ事後の確実な手立てを施していかねばなりません。

今回工藤議長の機転でこのように時間ロスなく流れましたが、本会議中に議長が議長席に着座している場合は議員も主要な事務局員も災害の察知、対応は遅れる可能性があるので議会事務局には今後その場合の危機対応を求めたところでした。

何はともあれ一刻も早く鎮静化されることを祈っております。
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2025年02月24日

大船渡線100周年

昨日摺沢駅の話題にちょっと触れたので、私も大船渡線100周年にちなんで思い出を綴ってみます。

私の以前の自宅は摺沢駅から歩いて3分の至近距離にあり、列車が走るレールの軋む音は日常の生活の音の一部でした。蒸気機関車が走っていた頃、ある夏の日、汗まみれになった機関士さんが台所の御勝手口に訪れ、母に水を一杯所望し、ひしゃくで一気においしそうに飲み干した場面は鮮明に記憶しています。

摺沢駅は庭のような存在でした。大船渡線は高校時代に通学で3年間利用するのですが、何といっても摺沢駅にまつわる思い出の方が懐かしく数多くあります。中でも小学生の頃の摺沢駅は利用客が多く、駅前の広場にはバスやタクシーが何台も待機していたものでした。小学校低学年の頃は大東高校の通学生が多く、列車の到着時間と登校時間がかち合うと高校生の人の波にもまれて前に進めず遅刻しそうになったことは何度もありました。高校生は例外なく汗の匂いが凄かった記憶は鮮烈です(女学生も)。駅前子ども会では夏休みの活動で顕彰碑の掃除をしていました。

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時は昭和40年代。祖母からチッキを渡され小荷物を引取りに行ったことも何回もあります。荷物は生け花用の生花で、当時の国鉄の駅員さんは不愛想で、いつも面倒くさそうな対応なので子ども心にこの役目は億劫でした。駅の売店にはよく買い物に行き、私は常連で売店のおばさんにはいつもよくしてもらいました。夏の時期は小遣い銭を持つとアイスを買いに走り、高学年になると毎週週間ジャンプを買いに行きました。祖父や父のたばこ、週刊誌、切手など親によく頼まれました。田舎の駅には珍しい噴水式のジュース自販機があり、ちょっとだけ都会の洗練された雰囲気に接した気分になりました。後にコーラの自販機に変わります。駅の待合室には通勤客、高校生、大きな荷物を背負ったしょいこの行商のお母さん、営業マンなどいろいろな人たちが混在していました。自家用車が普及する前なので移動手段は鉄道が主体の時代でした。短期間だけ立ち食い蕎麦をやったときもありました。

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貨物列車の引き込み線がまだ残存しており、貨物用の仮置き場があり、そこでよく遊んだ記憶があります。ホームから転落して痛い思いをしたこともありました。三沢高校が決勝再試合のした時にタクシーの運転手さんが仕事そっちのけで真剣にラジオ観戦して一喜一憂していた光景も思い出されます。

昭和40年代は人が多く、活気に満ち溢れていた時代でした。半世紀の時が流れ、いまや摺沢駅は駅員のいない駅になり、隔世の感は否めません。あの頃には戻れませんが、人情に接した摺沢駅の思い出は心の故郷(ふるさと)です。
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2025年02月23日

プレイバック1970年あの時

昨日、父親の代からずっとお世話になった小崎福雄さんの葬儀があり、何とか法要の席には間に合い、福雄さんの思い出話を話す機会を頂きました。とても悲しいことでしたが、心を込めて話をしました。

その晩、寝床に入ったら父とのことをピンポイントで思い出しました。昼間に話をしたことがきっかけでしょう。

1970年3月、小学校2年生の春休みの頃、祖母を羽田に迎えに行くことが目的で父は私を東京まで連れていってくれた思い出です。

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記憶に残る初めての摺沢駅を夜に出発する列車旅。それも仙台からは寝台列車です。ワクワクしない訳がありません。

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参考とした時刻表は昭和39年発行の東海道新幹線開通前の復刻版👆です。多少年月は経っていますが、大きくは変わってないはずです。

19時15分大船渡線摺沢駅を急行むろね2号で一ノ関駅まで。一ノ関駅からは同車両は東北本線乗り入れで急行くりこま3号になります。
仙台駅着が21時43分着。仙台駅からは23時25分発、寝台列車北星に乗車して上野駅着が翌朝の6時18分。仙台駅での待ち時間を含めると11時間の往路でした。北星は一ノ関駅も停車しますが、コストと効率を考えた行程になったと推察されます。

上野駅に着くなり、父から便所に連れていかされ、ここで「大」を済ませと命令されました。ところがその「大」専用の便所は10以上も並列にあり、そして各々に10人以上が列をなしている異常な光景でした。そもそも便意はないし異常な光景の恐れをなした少年は「今は出ない・・」と小声で言うのが精いっぱいの父への抵抗。「なんだ!」と怒られました。その後都内の移動中に地下鉄駅の静かな清潔な便所で無事に用は足したのでした。

上野で祖父が懇意にしている田中家を訪問しご機嫌伺い。東京の街には半ズボンの子を発見して驚きました。まさにテレビで観ていたチャコちゃんケンちゃんの世界。こちらはギッチリ下ズボンをはいているのに😖。羽田は夜の到着なので、時間潰しのため東京タワー🗼と後楽園(父はボクシングを観たかったが当日は試合なし)を引き回しです。後楽園ではペラペラの外れ車券のゴミ嵐の異常光景(その2)は鮮烈に記憶しています。田舎では絶対にみることが出来ません。東京タワー🗼では漫画家さんに肖像画を描いてもらいました。

浜松町からはモノレール🚝移動。生まれて初めて下りのエスカレーターに乗りました。便の到着は遅れに遅れて羽田空港での待機時間は長く、馬場と猪木がまだ一緒だった日本プロレスをカラーテレビで観戦。途中で見知らぬ男の子が画面を遮り、父が「ボク、そこどいてくれる」と聞きなれない標準語で、しかも予想もできない「ボク」という単語を父が発したことに驚き!でした。

結局、その晩は急遽上野に宿を取ることになり一泊。当初の予定は夜行で帰る予定だったのだろうか!(そうだったらかなりの弾丸ツアー😵)

翌日は昼頃の上野駅発の急行で一路帰宅路へ。上野駅では、ばあさんが私の手を放して一人で乗り場へ行ってしまい、私は上野駅で迷子となることに。かなりの時間を構内をさ迷っていて捜していた父にグイっと手を引かれ無事に列車に間に合いました。危なく私は誰かに攫われて海外に売り飛ばされるところでした。当時は始発となればホームに入線する時間が早くて、席の争奪戦が繰り広げられて時代なので出発まで余裕がありました。

帰りは常磐線経由だと思いますが定かではありません。車中にばあさんから香港のコインをもらいました。初めての海外の貨幣に触れた瞬間です。今でも大事に保管しています。右側のコインはエリザベス女王以前のジョージ6世ですから古いものです。

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ところが残念ながら不思議なことに東京で何を食べたか一切記憶がありません。

以上55年前の父との思い出に残る上京の旅でした。今では懐かしい直角の椅子に12時間以上も座る旅はもう日本ではできません。

この旅以降1979年の3月まで上京の機会はありませんでした。ゆえに匡少年の非日常のオンパレードだったこの記憶は鮮明なのです。《終》
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2025年02月22日

2025欧州視察 まとめ

この間、私も13年前の自身CERN訪問視察のレポートやTDR(基本設計書)の発表まで記事まで読み返してみました。私のブログ記事はILCのカテゴリーに関しては2009年2月17日が最初のポストで、16年間のポスト数はこのポストを含めて151本になります。

この度の渡欧は行政・県議会・期成同盟会(首長、一関市と大船渡市)・推進団体(推進協議会副会長)のメンバーが一団となって行ったことは今後の活動を進めるうえで共通認識が図られたことは成果として上がったと感じます。

ILCを巡る情勢は渡欧前から容易でないことは感じていたものの、実際に欧州の研究コミニティーのメンバーから現場を生の声を聞くと現時点での立ち位置が厳しいものであることを痛感することになりました。

しかしながら、今後の我々が注視している欧州の素粒子物理戦略に関しても流動的な要素が多く、これからの日本政府の動き方次第では形成が動く可能性も残されていることも確認できたと思います。

文科省の有識者会議によるILCプレラボ(準備研究所)の設立は時期尚早との結論が出て以来、コロナ禍も相まって国会議連の動きは低調となり、研究者コミニティーの働きかけもほぼ停止状態になったこの3年間の間にDESYやCERNは、結論の出ないところに振り回される暇はない、自前でできることをまずは進めようという流れになったのだと思料します。

加えて、この間にILCに関して欧州の牽引者であったリン・エバンス博士など多くの研究者が第一線を退いたことも影響を受けています。と同時にこの渡欧を通じて、欧州から遠く離れた極東地である日本で初めての国際科学施設を創るということが、いわば地の利の不利を覆すには通常の5倍も10倍も努力が必要ではなかったかと痛感しました。

IDT中田議長が申されていた「旗振り役」、石にかじりついても実現するという漢が政府にこの間不在であったことがとても口惜しい限りです。

今週、県議会では代表質問と一般質問があり、岩渕誠議員と佐々木茂光議員がILCについて取り上げました。

達増知事は自身の今後の動きについて質問を受け、周旋という単語を初めて出し、当事者間に立って世話をすることが自分の役目と本会議場で言明しました。この期に及んでこうした考え方では全く迫力がありません。佐々木茂光議員の質問を言葉尻を逆用しての答弁態度を含めてこの姿勢には残念以上の落胆を禁じ得ないものがあります。

ただ、残された時間を私はできる限りのことを実行する以外にないと心を固めた視察になりました。一関市の佐藤市長も逆境にあることは間違いないが絶対に実現するという気が高まったと話していたのは心強い限りです。

これから宮城県議会との共同議連を中心に政府筋に対して、特に自民党の政調でILCに関して取り上げることになったことを契機に効果的な要請活動を即時に進めていくことが必要と感じました。この件は帰国後に早速宮城県議会とは確認しているところです。

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帰国後CERNで購入したヘルメットを被って、入場許可証を下げて写真を撮りました。いつの日かILCのヘルメットで同様のポートレートが取れる日のために。

最後に冬には珍しいマッターホルンが望むことが出来たジュネーブの市街地から。(映っている人物は関係ありません💦😖)

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ジュネーブと言えばレマン湖。13年前は爆弾低気圧が来襲して大荒れでしたが、今回は静かなレマン湖でした。ちなみに身についているマフラーは13年前にジュネーブ市内の百貨店で買い求めたものでした😃

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2025欧州視察レポート 完
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2025年02月21日

2025欧州視察 CERNA

意見交換後はCERNの主要な施設見学へ。
まずは2024年に開業したばかりのCERNの新しいビジターセンター「Science Gateway」へ。

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新施設内からCERNのエントランスを臨みます。以前は右の木製のCUBEがビジターセンターの役割を果たしていました。

新しい施設はCERNの紹介だけでなく科学の探求に関してビジターに体感できる施設になっています。ヒッグス粒子が発見されて以来、学生、生徒のみならず一般の方の訪問も増加していて、当日も多くの若い人たちが訪れていました。

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次は、CERNの初代加速器 Synchrocycloton (SC)へ。

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CERNのレガシーをしっかり残し、CERNが歩んできた先人の偉業と共に紹介する施設。初代加速器にプロジェクトマッピングを写してビジュアル効果抜群です。

施設見学の最後は Atlas 実験のビジターセンターへ。 Atlas はLHCの陽子同士を衝突させた反応を映す巨大装置で日本の研究者も数多く関わっています。

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これらの施設は外川准教授、植松博士研究員にご案内を頂きました。

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【訪欧団全員でATLAS研究棟前で集合】


13年前に訪問した際に近藤名誉教授に詳細にご案内を頂きましたので、その下地があったのでよく理解できました。

LHCはヒッグス粒子、ダークマターなどの「新粒子の発見」が得意分野なのに対し、ILCは新粒子の性質をくわしく調べることによる「新しい法則の発見」が得意分野だといえます。LHCILCが研究の両輪となることで、新しい物理の扉が開くと期待されています。
(Newton 別冊 ヒッグス粒子 素粒子の世界 号から引用)
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2025年02月18日

2025欧州視察 CERN@

いよいよ最終目的地CERN(欧州原子核研究機構)に向かいます。

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意見交換の前にCERN内の食堂で昼食を取りました。以前訪問した時よりも若い研究者、ユーザー、関係者であふれていました。

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会議室のある中央棟Bld.40は13年前と同じく迎えてくれました。

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対応して頂いたのは国際部門非メンバー国担当リーダー Emmanuel Tsesmelis 氏 英国出身です。

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・CERNでは、研究、技術革新、教育・人材育成、コラボレーションの4つの使命を掲げている。
・加速器、検出器、コンピューターの3つの分野で卓越した技術を有しており、これらの要素は最新の研究において必須である。
・2041年までLHCが稼働し、その後の計画の検討、欧州素粒子物理戦略2020の更新を進めている。一つのオプションとして円周100kmのFCCを建設するという意見が出ている。これ以外にCLIC、CRRNでILCという話も出ている。

🏁欧州素粒子物理戦略についてはコミュニティによって議論が決定する。6月にベニスで世界の研究者が集まる会議があり、欧州に限らず他の地域の国も参加して意見を出し合う。次の戦略は2026年に改定される。現在どちらかというとFCCに傾いている印象を受けるが、他のオプションも排除されたものではない。現時点では円形になるか線形になるかはわからない。

前日の中田議長のお話が鮮烈でしたので、CERNではさらに厳しい話が出ると構えていたところ Emmanuel Tsesmelis 氏からは私たちの話も辛抱強く耳を傾けて頂き、さらに明確に今後の欧州戦略の道程についてもご示唆を頂戴しました。

FCCについては favor という単語で表現されていましたが、現時点では建設には多額の費用が予想され、さらに先に訪問したDESYでは支持することは困難とも聞いておりFCCも一筋縄ではいかない様相と受け取りました。
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2025年02月17日

2025欧州視察 CERN近郊自治体を訪問

CERN訪問前に周辺自治体の状況を調査しました。

私も以前訪問したことがあるFerney-Voltaire市(フランスのコミューン)を訪問しました。
ジュネーブからは国境を越えることになりますが、CERNまでは車で20分程度の距離に位置しています。2019年8月に当時工藤大輔副議長を団長とした調査団も同市を訪問して調査をした経緯もあります。

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【挨拶をする佐々木淳副知事】


Daniel Raphoz 市長をはじめ市の幹部職員に対応頂きました。

訪問の目的が明確なこともあり、Daniel Raphoz 市長からは核心に触れた説明を頂きました。

【CERNに関して】
・CERNは70周年を迎えており、市の発展もCERNの進化と同様に進化してきた歴史である。
・CERNは独立した機関であり、周囲地域との接触は薄い。この点については住民とコミニケーションを図る必要がある。
・CERNは実験場であり、工場でも遊園地でもない。工場は稼働すれば安定するが、CERNの場合は建設し、稼働が始まっても加速器が停止する場合があり、研究内容も変化していく。安定していない点では複雑である。

【CERNが及ぼす自治体への影響】
・研究員等への住居提供する自治体としては、水道、環境、廃棄物の影響が出てくるので、住民への説明と理解が求められる。
・市内では110もの国籍を有する住民があり、教育機関は英語のみの教育ということはできない。
・多様な文化の接触により、地元住民の見方が変わってきたり、研究に対する見識も変化するが時間はかかる。
・CERNは独立機関のため税金の収入は自治体には入らないが、経済の波及効果に期待はできる

定住人口が増えてすべてバラ色ではないというリアルな状況まで説明頂き、一関市長、大船渡市長も参加されていたのでDaniel Raphoz 市長も気分よくお話されたようでした。

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【県議会からの土産の返礼に市長から地元産のリキュールを頂戴しました】


同市にたどり着く道すがら周辺部を見渡すと私が13年前に市街地周辺を周回した時よりも住居が周辺部に拡大し、商業施設も増えているのを確認しました。人口は交流人口も含めて確実に増加しているようです。
posted by 飯沢ただし at 21:45| 岩手 ☀| Comment(0) | ILC 【東北から世界に発信!】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月15日

2025欧州視察 IDT中田議長面会

ハンブルグからジュネーブに飛んで宿泊先のホテル会議室でIDTの中田議長と面会しました。

IDTは国際リニアコライダー国際推進チームの略称で、2020年に国際将来加速器委員会(ICFA)が創設したチーム。3つのWG(ワーキンググループ)を包括しています。
中田達也名誉教授(スイス連邦工科大ローザンヌ校)はそのIDTを総括する議長です。

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令和4年10月14日の岩手日報がその前日に国会内で開催されたILC国会議連の総会の際に中田議長が講演した内容を報道しています。
そのうち中田議長の発言👇

💡ILCを巡っては、政府間合意に一定のめどがついていることが必要とする日本と、誘致に前向きな意思表示が泣ければ議論が始まらないと考える海外政府との間で、かみ合わない状態が続いていると指摘。理解の不一致を解決しない限りは議論が進まない。

💡ILC計画をけん引するIDTがつなぎ役となって、来春(令和5年春)までに各国間でグローバルプロジェクトの理解の共有を図れるようにしたい

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【CERNの現在の状況】

💠ヒッグス粒子が発見された2013年頃は、次期の大型加速器を活用した欧州の方向性が定まっておらず、ILCに関してもチャンスはあった。今はFCC−ee計画が浮上し、他の不確定な計画には参加できるような状態になっていない。

💠CERNはFCC−ee計画に関係することで時間が割かれている。加えて戦争という状況が大きく影響しており、不確定なILC計画よりも確実な方向性に議論を寄せつつある。

💠CERNは70年の歴史があり、現在も活気がある。国際研究所が出来ればすぐにそうにはなるとは限らない。ジュネーブが国際都市であることも留意すべきである。

【日本の誤認と国際交渉の不慣れ】

💥プレラボは、合意に至るまでを含む準備期間であって、その間に合意に至らない可能性も十分にある。関係国が協働でより研究を進めることで政府間の理解が深まる。その上でプレラボとは契機として研究者はとらえていたが、日本政府はプレラボを認めたら、日本は後戻りできないという方向で捉えられてしまった。

💥日本政府が手を挙げればすぐ実現するという誤解があるのではないか。関係国との厳しい交渉が必要。実現するためには明確な旗振り役の存在が不可欠

【海外の研究所における運営費の確保状況】

🚩欧州と日本では税制が異なるが、ハンブルグ市はDESYを大事にして市からも相当額を拠出しているし、中国も地方政府に拠出を要求している。

と3年前の新聞記事の状況から前へ動いていないことがこの発言でほぼ理解できます。さらに、日本はグローバルな観点で学術的にILCは必要だということを主張すべきであるとし、科学におけるこれからの計画は科学者だけでは話がつかないとも強調されました。

CERN周辺では日本政府がここ3年の間ILCについては放置をしていたため、もうすでに自前でできることにシフトしていることが窺える内容でした。これが現実と認識しなければならない厳しい状況と受け止めた面会でした。
posted by 飯沢ただし at 23:46| 岩手 ☀| Comment(0) | ILC 【東北から世界に発信!】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月14日

達増知事の知事演述を聞いて

本日は2月定例議会の開会日初日。恒例の知事演述がありました。

演説とはよく耳にしますが、「演述」は普段はあまり口語では使わない単語です。
調べると「自分の意見・思想を口頭あるいは文書で述べること」となっています。

果たして、本日の演述では達増知事の意見や思想がどれほど語られていたでしょうか。

ここ最近は、政策のカテごとに割り振られた各部局の原稿を集めたものを項目に応じて読み上げることが知事の演述の仕事になっていますが、今年もそのとおりでした。そこに自身の思い入れのある熱の入った政策も語ることもなければ、自身の課題認識も示すこともありませんでした。特にILCに関する課題は、視察団の報告書を受けて自身の具体的な行動指針すら示していないことは不満です。

今から10年前に当時社民党所属の久保孝喜議員が実に的確に知事演述について一般質問で発言したことがありました。
以下議事録から紹介します。

〇23番(久保孝喜君) 社民党の久保孝喜でございます。
今任期最後となる予算議会に登壇できたことを感謝申し上げ、実りある議論となることを願うばかりであります。
最初に、今議会冒頭に行われた知事の所信表明演述についてお伺いいたします。
正直に感想を申し上げれば、私は、大変驚き、ある意味びっくりさせられました。ささやかな歴史ではありますが、私の20年に満たない議員生活の中で、ここまで徹底された自画自賛、成果、実績のオンパレードの演述は初めてであります。私の認識の中での所信表明演述とは、過ぐる年度の成果と課題を丁寧に県民に提示し、提案予算における重点と方向性へのアプローチに理解を求めつつ、県政トップとしての決意や、その理念を明確にする極めて重大な意味合いがあると考えるのであります。
知事のそれは、全く別物でございました。残念ながら、今回もまた一方的な成果、実績を羅列し、課題や問題点、克服すべき点などには深く言及することもなく、したがって、トップとしての謙虚な反省や不十分さへの弁明すらなく、岩手県政の集中点がどこにあるかの訴えも希薄でございました。改選を意識した選挙演説とでも言うべき内容に終始したと断ぜざるを得ません。
こうした実績の羅列や成果をうたい上げる姿勢は、厳しい被災地の現況、懸命な営みへのある種の傲慢さにも通じ、深刻な問題の所在を曖昧にするばかりか、県政の方向をミスリードすることにもなりかねないと思わずにいられません。県職員の誰もが一生懸命に取り組んでいることを疑う何物もないのは自明のこととして、トップとしての姿勢、振る舞いの問題として、極めて遺憾な態度と受けとめざるを得ません。
〔副議長退席、議長着席〕
行政は、法と計画に基づく真摯な営みであると思います。予算が投下された事業における問題点や課題の存在は、当然ながら常に目の前に繰り返し立ちあらわれます。そのとき、計画の達成や事業の終了を成果に読みかえてよしとしてしまう、そんなことがあってはならないと思います。
一定の時期に一定の進捗があり、事業が滞りなくまずは完了したとしても、それは新たなスタートにしかすぎません。不断に将来につなぐ課題を洗い出し、原因と背景に関しての不十分さに謙虚な反省の姿勢を示すとともに、これからの決意や展望を語る、そうできるかどうかは、まさにガバナンスのありようとして問われることになるものだと思います。
知事の所信表明には、そうした姿勢が全く読み取れませんでした。
昨日の岩崎議員とのやりとりを聞いてなお、そう思わずにいられません。トップとしての感性に欠ける態度と言わざるを得ないことを指摘したいと思います。
その上で、まずお伺いいたします。復興の現状において、高らかに成果をうたう知事のスタンスと直近のいわて復興ウォッチャー調査のずれをどう説明し、対応するのか、その認識を伺います。
また、4年間の成果をこれでもかとうたいながら、復興の成否に関して大きな課題でもあるJR線の復旧問題や緊急雇用創出事業の不適正な経過や現実に一切触れない理由は何か、根拠ある説明を伺いたいと思います。見解をお示しください。


達増知事の所信表明演述は今回で19回目となることで、所信の演述とはこんなものと固定観念を持たれることを危惧します。
このブログを読んで頂いている県職員の方々も久保議員の指摘をぜひ読んで頂きたい。久保議員の指摘は県のトップのしての基本的な振る舞いであり、見事に正鵠を射ていると思います。

ちなみに、この久保議員の指摘に関しては達増知事の答弁は完全スルーでした。
posted by 飯沢ただし at 23:40| 岩手 ☁| Comment(0) | My Diary  【ふつうの日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月12日

令和7年 大東大原水かけ祭りに参加

42歳の厄年の時に参加して以来、約20年ぶりの裸男の参加をしました。

還暦時には自分自身をを生まれ変わるという意味も込めて参加をずっと考えていましたが、昨年やっとコロナ後の通常開催が復活し参加をと意気込んでいましたが、右肩骨折治療中のため断念したのでした。

私も議員になってから開会行事等に来賓として25年来欠かさず参加していますが、今年ほど気象条件が厳しく寒い⛄年はなかったと思います。しかし、よりによって私が参加する時にとも思いましたが、今年の参加を決意表明したからには曲げてしまっては男が廃ります。

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以前参加した時は水かけ祭り保存会の会長は千葉政吾さんでした。20年後の現在は政吾さんのご長男が副会長をされていて月日の流れを感じます。

祭のメイン、裸男が水をかけられる行程ですが、私は予め予言していた通りに右端をゆっくりと走行😵水の直撃弾は回避する作戦です。

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しかし、最後の最後に立町年賀会の納水の苦行がこの写真の後に待ち受けていました。すでに顔が強張っています。

極寒の日に当たりましたが、逆に心も体も禊を受けたと思います。名実ともに還暦で生まれ変わったのでこれからの人生を大切に生きていく確信を持てました。

実は祭りは夜まで続きます。祝年者の名簿が掲載されたお宅では宴の席が設けられており、ご縁がある方が訪問し、祝年者にお祝いを伝えます。コロナ後になって名簿掲載する祝年者が減ってきており、往時を知るものとしては寂しい思いもします。

祭のスタッフ等も高齢化の影響で補充が難儀しているとお聞きしました。この祭りはとてもいい祭りなので、何とか知恵を絞って変革を恐れることなく継続して頂きたいと切に思います。
posted by 飯沢ただし at 14:32| 岩手 ☁| Comment(0) | The Events  【各種催物】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月10日

2025欧州視察 DESYB

意見交換後はDESYが今一押しのXFELと関連施設を見学。

Thomas Tschentscher 科学ディレクターから概要等の説明を頂く。 

XFELは、毎秒27,000回の超短X線フラッシュを生成し、従来のX線放射源の10憶倍の輝きを放つ。この施設は科学者や産業界のユーザーに新しい研究の機会を与える。

装置の全長:約3.3km
加速器トンネルの全長:約2km
トンネルの深さ:地下6m〜15m
実験ホール(地下):5本のレーザービーム、10カ所の測定ステーション、4,500u

説明後に地下の実験場へ移動

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【実験装置が準備のため停止中の測定ステーションの内部まで見学】


同施設において研究を行っている日本人研究者 Mikako Makita 氏、Motoaki Nakatsutsumi 氏の案内で見学。

その後、冒頭説明を受けた施設に戻り、ビジター機能を併設した新設された同施設の機能について説明を受ける。

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ドイツ国内の若者に科学の興味を与えるための実験装置、デモンストレーション装置が複数備えられており、DESYが人材育成にも投資をしている様子を十分に理解することができました。

DESYでは、現在XFELの運用と発展に注力していることが十分に窺い知れる視察でした。
posted by 飯沢ただし at 23:48| 岩手 ☀| Comment(0) | ILC 【東北から世界に発信!】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月09日

2025欧州視察 DESYA 

DESY内で最初に吉岡先生からの紹介があった Jenny List 博士と意見交換。

Jenny List 博士はILC国際開発チーム(IDT)に積極的に参加しており、特にワーキンググループ3(WG3)の物理学と検出器の副議長を務められています。

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Jenny List 博士からはILCの現況に関して率直な意見が出されました。

・ILCに関しては興味があり、日本で実現して欲しいが、政治的、予算的な問題で進んでおらず、可能性が薄れている印象である。
・日本政府からは実現に向けての正式なオファーがが一度もない。日本政府が支援しているようには見えない。
・ILC実現のためのタイミングはすでに超えてしまっている(物事が動いていないため)ように感じる。

という研究者の立場からの厳しい現実が明らかに・・・

一方
・素粒子物理学に長年携わっている立場とすればCERN以外に別の研究拠点があることは重要。
・円形加速器と比較してILCは最新技術の活用が出来、規模的、コスト的にも優位性がある。

とILCへの評価も話されました。

その後、DESY最高技術責任者代理の Sabine Brook 博士、キャンパス開発プロジェクト責任者の Tobis Piekatz 博士からDESYの成り立ちと今後の方向性、地域との協力体制についてお話を頂きました。

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【説明されるSabine Brook 博士】


・大型施設の実現のためには社会のために何ができるかのコンセプトが重要。
・そのためのビジョンづくりを各分野からの意見、アイデアを集めて計画することが大事。

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私も県議会を代表して、これまでのILCに関わってきた足跡と展望を述べました。

DESYは日々進化をしており、PETRA Wまで計画が進んでおり、DESYが保有する技術を常に磨いて実現しています。地元のハンブルグ市の資金面などの協力体制もかなり強固なものがあります。
posted by 飯沢ただし at 14:00| 岩手 ☀| Comment(0) | ILC 【東北から世界に発信!】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月08日

岩淵健彦先生ありがとうございました。

中学時代の恩師である岩淵健彦先生がご逝去されました。享年93歳。
本日火葬に同級生と参列し、最後のお別れをしてきました。

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約20年前に患った重病を克服されて、最近までお元気でおられました。お盆に開かれる藤沢町の縄文祭りには審査員として参加されており、毎年お会いするのを楽しみにしていました。昨年は久しぶりに参加されていたのを見つけましたが、お声をかけられず今思うと残念でなりません。

大東中学時代の思春期は人格形成の上で重要な時期で、私にとって岩淵健彦先生、北村弘郎先生、及川勇恒先生は三大恩師です。

中でも健彦先生は3年時の担任であり、1年時は生徒会の指導役でもありました。教科は3年間美術を、3年時には社会を担当されました。

健彦先生は満州から引き揚げて、苦学されて教師になられた話は何度となくお話を伺っており、時には当時のことを涙して語られることもありました。私にとって命の尊厳について初めて考えさせられた時でした。私が入学した昭和49年は学テ闘争の盛んな時期で、先生同士の意見の対立もあったようですが、懐深い健彦先生の存在はそこでも貴重だったと推察されます。いつも笑顔を絶やさず優しく接して頂きましたが、時には核心をついてびしっと厳しく指導も頂きました。

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【このような所見を書かれる先生は当時唯一無比で、今読んでも魅力的です💓】


中学三年時の通知表に記された「ロマンを追う」の言葉は卒業後も心の隅に置かれています。(今では私のロマンは趣味のMやKに大人になって色濃く反映されていますが😵)、教えの「ムダの美」の観念は体の芯に組み込まれ、生きていく上での指針になっています。このような豊かな言葉を贈れる先生に出会えて幸運でした。還暦を越えても趣味以外のロマンを追い続けたいと思います。

先生の自宅は県立千厩高等技術専門校の近くにあり、入校式参列の折に何度か立ち寄りお話をしました。先生は中学時代と同じく平らな目線で、何気ない会話の中に、虚飾ではない本質を見極めることをしみじみと教えて頂きました。本当に感謝にたえません。

今は、大好きなサントリーの角を携えて、空の上で成仏されることを願っております。

健彦先生、ありがとうございました。安らかにお眠り下さい。合掌。
posted by 飯沢ただし at 23:54| 岩手 ☀| Comment(0) | My Diary  【ふつうの日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月04日

2025欧州視察 DESY@

欧州視察から無事に帰国しました。

今回は私は初めてのKLMオランダ航空。今回はアムステルダムを拠点軸にした空の移動が中心。往路はロシアによるウクライナ侵略の影響でロシア上空は回避されベーリング海峡を通過し、北極圏からグリーンランドを横切りアムステルダムへ。当日輸送でハンブルグへ移動。

まずはドイツが誇るDESY(ドイツ電子シンクロトロン)へ。

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DESYの名称は、 Deutches Elektronen-Synchrotron の略称。素粒子物理学に関する研究や放射光を用いた研究を中心に行う研究所。1959年設立。

@ 年間予算 :約3億4900万ユーロ(1ユーロ≒170円換算で約593億円)
A 職員数  :約3000人(うち科学者1300人)
B 利用   :年間約3000人の研究者が利用

超電導加速器主席研究員 Hans Weise (ハンス・ヴァイゼ)博士からAMTF ホールで加速器の構造や製造、試験内容について説明を受ける。
Weise 博士は超電導加速器の運転と開発を主な研究テーマにしている博士。

DESYの持つ優れた加速器技術はXFEL(X-ray Free Electoron Laser)(X線自由電子レーザー)が代表的で現在、彼はヨーロッパのXFELプロジェクトのDESYの取り組みを主導し、XFELアクセラレーターコンソーシアムの調整も引き継いでいます。

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この黄色い加速器モジュールは筑波にあるKEK(高エネルギー加速器研究機構)のファクトリー内で何度も解説を受けたもので、超電導による加速器はすでにお馴染みです。

特筆すべきは、制作や組立にイタリアの企業やフランスのサクレー社が関わっており、高エネルギー物理の国際協力が成されていることです。

XFELにおける加速器の技術は、ILCに活用可能であることが示唆されました。

実はX線自由電子レーザー施設は兵庫県のSpring-8に並んで設置されたSACLAがあり、平成24年から供用されています。
posted by 飯沢ただし at 23:57| 岩手 ☁| Comment(0) | ILC 【東北から世界に発信!】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする