港湾の視察は@清水港A横浜港でした。
どちらもコンテナ埠頭施設と実際に行われているオペレーションを視察しましたが、その感想については次回に記します。
Aの横浜港のうち、新たに整備された客船対応の新港埠頭のハンマーヘッド施設も視察対象でした。
新港埠頭周辺は旧高島埠頭も含んだ横浜新開発「みなとみらい」開発によって平成の時代から大きく変容して、私が働いていた40年前の姿は赤レンガ倉庫しかありません。
私がいた昭和の終わり頃は横浜港では在来船とコンテナ船が混在している頃で、新港埠頭も在来船バースとしてたまに活用されていました。たまにというのは埠頭に隣接している上屋がほとんど活用されていない状況にあり、艀(はしけ)荷役が中心の本船しか接岸しない状態でした。

【かつての新港埠頭。ベーブルースもこの埠頭から上陸したという】
中国船の雑貨の荷揚げやインド船の鉄パイプ積みが思い出されます。中国船からの輸入は、そば、小麦などの袋ものや人毛(かつら用)などもありました。インド船の荷揚げ装置は能率が低く、2〜3本の鉄パイプを一日中カラ〜ン、カラ〜ンと音を立ててのんびり荷役をしていた時代です。

戦後横浜の埠頭は米軍に接収され、瑞穂埠頭がノースピア(現在も接収されたまま)、大さん橋がサウスピア、新港埠頭がセンターピアと呼ばれて、新港埠頭4号はCP4と略されていました。私がいた頃ハンマーヘッドクレーンの存在は誰からも聞いたことがありませんでした。
新港埠頭内に当時、作業会社の笹田組の事務所があり、荷役が終わった時に歩いて事務所に寄った時もありました。
それが今や姿を変えて大型客船専用の埠頭に生まれ変わり、関連施設も(ホテルまで)整備されて綺麗な環境になりました。
街(まち)は時代と共に変わっていくものですが、これほど人為的に目的を持って変化したところもそうはないでしょう。
再開発されるところは再開発をされる価値が認められるところのみ。資本が投下される力の差は中央と地方では認めざるを得ませんが、岩手の場合どのような形で(たとえお金を多額にかけなくても)再開発されるのがいいのかしっかりとしたビジョンが必要です。