昨日は火葬に立て続けに参列しました。元藤沢町長の佐藤守氏、会社OBの佐藤靖臣氏。もう一件町内猿沢の佐藤友信さんは妻とも親交があったので代理で参列してもらいました。三氏ともご高齢でしたが、お世話になった方々なのでとても寂しく思います。月日の経過は希望もあれば悲しみもあります。

日曜日に大東高校の獅子踊り部の演舞があったので室蓬ホールまで歩いて行きました。その帰り道、とてもいい天気だったので旧宅付近と今は無人駅になってしまった摺沢駅周辺をゆっくり散策してみました。
写真のイチョウの木は旧宅の敷地とJR(旧国鉄)の境にあり、私が子供の頃から唐突な場所にあるんだなと感じてましたが、今から思えば昭和20年代に旧宅を建てた頃に祖父の武雄が我が家に有利になるように目印として植えたものと推察します。旧宅地と旧国鉄との間で境界をわざと未定にしていたフシがありました。国鉄職員は転勤がありますから当初の事情を知る人間は月日がたてばいなくなるのです。
明治の男はまったく抜け目がありません。
明治の人の狡猾さと大胆さは相当なものがあります。
このイチョウの木の場所から少し下がると旧宅の勝手口があり、昔は洗濯場も屋外(といっても屋根付き)にあり、母は勝手口を頻繁に出入りしていたのを思い出します。そういえば書いているうちに思い出しましたが祖父の姪っ子さんたちも玄関から入らないで勝手口から出入りしていました。大船渡線がまだ機関車だった頃、当時の摺沢駅は貨物列車の待機のための引き込み線があり、真夏の暑い日に蒸気機関車の汗だくの機関士さんが「水一杯飲ませて下さい」と勝手口に来ることがありました。大きめのひしゃくで一気に飲み干した後の表情は今でも忘れられません。本当に生き返ったという満足な顔でした。

昔はイチョウの木の先の線路を越えていくと中学校への近道になるので平気で線路を横断していましたが、今ではそんな不敵な生徒もいないし、現在では同じことをすると大変なことになってしまいます。昔は大らかでした。
考えてみるとこのイチョウの木がそのままあるのも、微妙な位置に植えてあるからかもしれません。
JR大船渡線はILCが実現すれば再び利用価値が見直されることになるでしょう。それまでこの木はこれからもずっと見守ってほしいと思います。