志賀節元代議士がご逝去された。享年88歳。
志賀家は戦後親子二代で一関市周辺を基盤にした代議士であり、小沢・椎名・志賀と旧2区で同じ自民党同士でしのぎを削った地盤争いも今や昔となった。
志賀家と飯澤家とのご縁といえば、町議をしていた祖父が志賀健次郎氏と関中で同級生、同じ大東町出身ということで健次郎氏までは熱心に応援していたと聞いていた。大原出身の健次郎氏が代議士でなければおそらく北部6町村による大東町誕生はあり得なかったと思う。(祖父が合併後に財政再建団体から大東町が早期に脱するため等の諸課題の解決のために代議士の健次郎氏を頼ったことは十分に推測される)事実として健次郎氏が防衛庁長官就任時に祖父らが依頼して県立大東高校のグランド整備に自衛隊の訓練と称して多大な尽力をして頂いたと聞く。
私が県議になった1999年には志賀節氏はすでに元職となっていたので私は直接にお話しをした記憶はほとんどない。ただし、その間、節氏は新年交賀会にはご熱心に出席されていてどの会場でも寸分違わぬように同じお話をされていたのを記憶している。
2003年の衆議院選挙が間近になった頃に、妹君の志賀かうこ様から盛岡のホテルで熱心に応援を依頼されたことはついこの前のように記憶しているが、節氏のご逝去の報によって月日の経過は冷徹に刻まれていくものだと改めて思う。
節氏が執筆された上記の本は読ませて頂いた。後段の政敵である小沢氏や後に地盤を分断された菅原喜重郎氏のところはとても興味深かった。
祖父も政界を引退してから代替わりした節氏を応援した記憶は私にはない。何度か我が家をご本人が訪問されて支援をお願いしに来られたのを私も記憶しているがあっさりと断っていたし、その後政界に入った父は菅原喜重郎氏と行動を共にしていたので節氏との関りは薄くなっていった。祖父にどういう考えがあったのかその真意を今となっては聞きたいものだ。
私がご示唆を頂いた椎名素夫先生に志賀節氏の印象を聞いたことがある。「志賀さんという人は、おもしろい人だったね」あまりに言葉の調子に含んだ意味が複層していて判断に迷ったが、その後素夫先生が事例を二つ三つあげて頂いて得心したものだった。
令和の御代となり、昭和の時代の色が急激に色褪せ、時代が音を立てて変わっていくのを肌で感じる。合掌。