一般質問4日目、最終日。いわて県民クラブから千葉絢子議員が登壇。
昨年の6月議会に絢子議員は、このコロナ禍の中、またその後の社会にあってコロナ以前に策定された県民計画の妥当性はあるのかと質しておりました。
千葉絢子議員:「知事は、価値観が変わっているこの現在も、今後も、予定通りいわて県民計画を遂行していくことが可能だと思われているのかお尋ね致します。」
達増知事:「マッチ売りの少女の話は、主人公のマッチ売りの少女が、もう飢えて、寒くて亡くなってしまうわけですけれども、そういう状況の中で、最後にマッチをするたびに幸福のビジョンが、幸福の形がそこに描かれます。
19世紀イギリスのディケンズが、産業革命が進んでどんどん産業化が進むイギリスにおいて貧富の格差が拡大する中、貧しい人たちに着目した小説をたくさん書きましたけれども、そういう時代の中での幸福の形を、より普遍的な多くの人に通用する形で描くのに成功しているのは、むしろ恵まれない環境にいる人たちであり、クリスマス・キャロルのスクルージのように、お金があって裕福な人のほうが、かえってお金もうけだけが幸福だというゆがんだ幸福感を持っていて、それもクリスマス・キャロルでただされるわけですけれども、そういうところがあると思います。
今、コロナ禍の中で、経済的、社会的に困窮している方々が、その中で、本当は自分はこういうことがやりたいのだ、こういう仕事がしたい、こういう学びがしたい、こういう生活がしたいという、そこにこそ我々が実現すべき幸福の姿があり、そこにしっかり取り組んでいくことが、いわて県民計画の基本目標を達成することにもつながると考えます。」
このマッチ売りの少女を引用したあたりに知事の想像力の貧困と限界を感じ取ったのですが、その後ひな壇に座してこの答弁を聞いていた複数の部長さん方もほとんど腰を抜かしたと申しておりました。マッチ売りの少女が死んでしまうというのに話しながら気づいたのか急遽ディケンズの作品を引用したのでしたが後の祭り。
こういう経緯があり、さらに達増知事が母校の盛岡一高で講演した内容に、「幸福の青い鳥」を引用したらしく、その内容と併せて今回も絢子議員はコロナ禍における「お互いに幸福を守り育てるいわて」を看板にした県民計画ついてあらためて質したところ
今回は計画の策定の経過と意義について淡々と述べ、質問者の趣旨には意図的に一切触れず。
何が面白くないのか、気に障ったのかどうか分かりませんが、こうした不誠実な対応には呆れてしまいます。自分を攻撃するもの、価値観の合わないものは排除する。こんな狭い度量では県民の幸福など語る資格はないと私は思います。
こうした一本取ったような優越感に浸っている間に、答弁を聞いている部下たちはどのように感じるかとは思わないのでしょうか。失うものが大きすぎると思います。
死ぬ直前に描いた幸福のビジョンなど私は共感できかねますし、今回のやり取りを見て、こうした思想を持つリーダーの下で働く職員の方々に心からご同情申し上げる次第です。