2021年03月14日

あの3.11から10年の月日

去る3月11日、県議会は休会となり県と陸前高田市共催による合同追悼式に参列してきました。震災から翌年の初めての追悼式も県と陸前高田市による合同開催でしたが、雰囲気はまるで違っていました(当然といえば当然ですが)。10年の月日の流れを感じます。

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【岩手日報 3月11日朝刊 (以前の)県議会レポート】


岩手日報社から取材を受けてコメントしたのが掲載されました。ランダムに話をしたものをよくまとめてくれたと思います。このコメントの核心は達増知事が震災前よりハードは整備されて復興の準備はすべてできた。という記事を元になっています。形だけを整えたら何とかなるみたいな空想的なお話では真の復興などありえないと思ったからです。以前から広域振興局は産業振興の戦略拠点であるべしという提案をしてきましたが、県は体制は整ってると言いつつも効果の上がる組織になっていないことを指摘をしたものです。被災地こそ新機軸の産業振興に県は力を注がなければなりません。

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追悼式からの帰り道は来た国道343号を使わず、開通したばかりの三沿道で気仙沼を目指しました。気仙沼湾を横断する大橋を通過し、大谷海岸のインターで降車。

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小さい頃に海水浴に行った大谷海岸も津波でさらわれて消滅しましたが、砂浜の再生工事中のようでした。車窓から震災復興によるニュータウンが形成され、画一的な住宅群が目に流れていきます。思い出ある街並みやそこに流れる空気一変させてしまいました。しかし、今こうして生きている人たちが新しい歴史をつくっていくのです。それには地元に生活できる糧となる産業をいかにつくれるかにかかっています。
posted by 飯沢ただし at 15:12| 岩手 ☔| Comment(0) | My Diary  【ふつうの日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする