体調を崩されて入院されてわずか一か月とご家族から聞きました。この数日心に大きな穴が開き、いまだに事実を受け入れられないでいます。
本格的なお付合いが始まったのは平成8年の大東町長選挙の時でした。私の父が入院中で、私は当時34歳。若輩の身ながら小原陣営の個人演説会の応援弁士として駆り出されたのでした。当時は新進党ブームが冷めやらぬ時期で世の中の政治の局面が変わる時期でもありました。
その後,3年後には県議選に小原伸元氏と松川誠氏が後見人となってもらい、私が県議選に立候補することになりました。
増田県政、小原町政、そして私の立ち位置の距離感が良好で、その成果の例が増田県政が国に先駆けて行った「人と事業との一括事務事業委託」で行った丑石橋改築、曽慶川改修、大原バイパス整備でありましょう。
【4年前の決起大会で応援の弁を頂きました】
私が地域政党を立ち上げるときに、いの一番に相談をしたのも伸元さんでした。「大丈夫だから心配しなさんな」の言葉に何度励まされたことか。見識は豊かで視野が広く、誰のために政治を行うのか確固たる覚悟を持っていた方でした。親子ほどの年齢が離れていても私は顎で使われ命令されたことは一度もありません。常に人としての立場を尊重されていました。
過去を振り返ることよりも将来を憂い、政治家引退後も先々を見通して行動された尊敬する政治家でした。思い出は尽きず、ここで一気には書ききれません。これから教えを頂いだ私はの役目は、伸元氏が貫いたビジョン、信念を私も微力ながら引き継いで地域発展のために頑張ることだと覚悟しております。