2017年03月05日

『離見の見』に学ぶ

 自分自身を離れたところから客観的に冷静に見ることの重要性を、『離見の見』という言葉で強調したのは、観世流能の完成者世阿弥であった。「我が身を知る」といっても、それは低い次元での自己認識「我見」であってはならず、高い次元からの自己認識『離見の見』でなければならないとする考え方を、世阿弥は別の著作『花鏡』(はなかがみ)の中で明らかにしたのである。

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東京都の豊洲市場問題の責任の所在は、石原元都知事の会見からも明らかにされず、今後都議会の百条委員会が大きな山となりそうだが、追及して結果を出すのはかなり難しいだろう。この問題はかつての岩手競馬の盛岡競馬場移転に係って予想以上に経費が嵩み、それを誰も止められず結局存廃論議の大きな原因となった事案と経過が似ている。

要は動き始めた事案は大きければ大きいほど途中で容易には止められないというおかしな現象である。

うまくいかなくなると責任の所在が曖昧になる。これも良く散見される。

なぜこういうことがまかり通るのか。それは結局自分たちの腹は痛まないから。
こうしたことを諌めるのが議会の仕事であるが、行政側のトップと政治的につながっていると、しかも多数を占めると歯止めが効かない例が極めて多い。

故に行政も議会も常に『離見の見』をもって客観的に自分の行動を見る目が必要だ。権力の座に満足して権勢を我が物顔に振るう等はとんでもなこと。

豊洲問題は他山の石として行政の品質管理にこれからも努める所存です。
posted by 飯沢ただし at 23:59| 岩手 ☀| Comment(0) | My Opinion 【意見を申す】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする