2015年06月23日

日韓国交正常化50年にあたり

本県の代議士であった椎名悦三郎氏が日韓国交正常化に大きな役割を果たしたことは有名であるが、あらためてその偉業を50年という節目で振り返ることも重要と考え、以下のコラムを引用します。

外相就任、日韓国交正常化成し遂げる
「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎
政客列伝 日本経済新聞社 特別編集委員・安藤俊裕

 1963年(昭和38年)、民政移管に成功した朴正熙大統領は日韓交渉を早期に妥結させ、日本の資金協力によって韓国の経済発展を進める強い決意を固めた。昭和39年7月には丁一権内閣を発足させ、外務部長官には39歳の側近・李東元を起用して体制を整えた。米国も極東の安定のために日韓の早期和解が望ましいとして、陰に陽に両国に日韓交渉の妥結を働きかけていた。

 日韓間の残る懸案は基本条約問題だった。日韓併合条約について韓国は「当初から違法・無効」と主張し、日本は「昭和20年に無効になった」との立場だった。韓国政府の管轄権についても韓国は「朝鮮半島全域を管轄する唯一の合法正当政府」と主張し、日本は「北緯38度線以南」との立場だった。こうした問題は両国のメンツや国民感情が絡んで大きな政治決断が必要だった。

 日本では昭和39年9月、池田首相が喉頭がんで入院し、10月25日に退陣を表明した。後継首相には自民党の川島副総裁、三木幹事長の党内調整の結果、佐藤栄作が指名された。佐藤首相は官房長官を鈴木善幸から橋本登美三郎に代えた以外は全閣僚を留任させた。臨時国会の所信表明演説で佐藤首相は日韓交渉の早期妥結方針を明らかにし、椎名外相は早期訪韓を実現して決着を急ぐ意向を表明した。

■金浦空港で「深く反省する」と声明

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 椎名外相の訪韓は1965年(昭和40年)2月17日から4日間と決まった。椎名はこの訪韓で一気に基本条約の仮調印にこぎ着けることをめざした。韓国内の日韓条約反対の世論は険悪で、これが朴政権を苦しめていた。日韓交渉のカギは険悪な韓国世論をどう緩和するかであった。昭和35年、戦後初めて訪韓した小坂善太郎外相は過去の植民地支配について「極めて遺憾」と表明したが、韓国世論は凍り付いたままで小坂外相は冷たく迎えられ、成果を得られず帰国した。

 椎名外相訪韓では空港に到着した際のステートメントで過去の日韓関係にどう言及するかについて外務省内でもさまざまな議論があった。椎名は出発の直前に「深く反省する」との文言を入れることを政治決断した。これが椎名訪韓成功の大きな決め手になった。2月17日、「椎名訪韓阻止」を叫ぶ全学連デモ隊と警官隊の小競り合いの中を椎名外相は羽田空港を出発した。金浦空港に到着すると歓迎式典で椎名は用意していたステートメントを淡々と読み上げた。「両国間の永い歴史の中に、不幸な期間があったことは、まことに遺憾な次第であり、深く反省するものであります」

 椎名のステートメントは韓国世論の沈静化に大きな影響を与えた。空港から宿舎の朝鮮ホテルに入る際に大勢の反対デモが押しかけていたが、大きな混乱はなかった。表敬訪問に訪れた丁一権首相も李東元外相も椎名のステートメントを高く評価した。17日夜の李外相主催の歓迎レセプションでは欧米の駐韓大使もこぞって椎名ステートメントを歓迎した。

 レセプションには韓国記者団も大勢来て「反対デモの感想は」と椎名に尋ねた。椎名は「(韓国紙の)夕刊の反対デモの写真を見てびっくりした。反対デモの先頭にオレがいるんだものな」と答えた。韓国の野党リーダーである尹●(さんずいに普)善元大統領と椎名は風貌がそっくりだった。韓国記者団は大笑いだった。「尹氏と大臣はどちらが年上ですか」という質問に椎名は尹氏の年齢を確かめた上で「それならオレの方が弟分だよ」と答えた。こうしたやりとりも韓国内に伝えられ、韓国世論の緩和に役立った。

18日午前、青瓦台に朴大統領を表敬訪問し、同日午後から李外相と基本条約仮調印に向けて本格的な交渉に入った。帰国を翌日に控えた19日夜に椎名外相主催の返礼レセプションが開かれたが、交渉は妥結に至らなかった。李外相はレセプションの途中で椎名を高級料亭に誘い出し、最後の詰めの交渉に入った。日韓併合条約の有効性や韓国政府の管轄権はどこまで議論しても平行線だった。椎名はこれらの問題は玉虫色にして事実上棚上げして妥結を図るほかないと李外相の政治決断を求めた。

 最後までもめた韓国の管轄権については韓国に関する国連決議の案文を参考に玉虫色の表現にすることで落ち着いた。竹島領有権問題も棚上げにした。李外相は「自分の授権範囲を超えている問題もあるから大統領の承認を得ないと」と言い出した。朴大統領はこの日、鎮海湾に停泊中の軍艦に泊まっていた。椎名はすぐに軍艦の中の大統領に連絡するよう李外相に求めた。朴大統領の承認が伝えられたのは20日午前1時であった。椎名はそれから宿舎に戻って外務省の随員と打ち合わせて床についたのは午前3時だった。

 椎名外相は20日午前5時半に起床し、パジャマ姿のまま、佐藤首相、川島副総裁、三木幹事長、橋本官房長官に相次いで電話して交渉妥結を報告し、基本条約仮調印の承認を求めた。佐藤首相は「それで国会答弁は大丈夫か。野党の攻撃はかわせるか」と尋ねたが、椎名は「国会答弁は私が全責任を負うから心配はご無用だ」と答えて佐藤の承認を取り付けた。同日午後2時、椎名外相と李外相は日韓基本条約に仮調印し、午後3時半に椎名は金浦空港を立って予定通り帰国した。

 基本条約の仮調印で残る懸案についても日韓交渉と国内調整は一気に進展した。椎名外相は請求権問題で無償3億ドル、有償2億ドルのほか1億ドル以上とされた民間協力の規模を3億ドルとし、漁業協力について4000万ドルとする腹案をまとめて3月20日の佐藤首相、田中蔵相、赤城農相との4相会談に臨み、すべての了承を取り付けた。特に田中蔵相は大蔵事務当局の不満を抑えて「これは大きな政治問題だから」と椎名提案にすぐに了解の署名をした。田中は椎名の兄貴分の川島副総裁と親密だったが、椎名も田中の決断の早さを高く評価していた。

 この結果、4月3日、日韓両国外相は東京で請求権、漁業、在日韓国人の法的地位の3懸案について協定に仮調印した。椎名は同年6月の内閣改造でも外相に留任し、6月22日、東京で日韓基本条約、及び関連協定が両国外相によって正式に署名調印され、戦後の最大の外交懸案の一つだった日韓国交正常化がようやく実現した。残るのは国会の承認手続きであった。北朝鮮一辺倒の社会党、共産党は院外の反対デモと呼応して徹底抗戦を試み、国会審議は大荒れになったが、蔵相から自民党幹事長に転じた田中角栄の豪腕によって同年12月8日に承認手続きは終了した。

 昭和40年12月18日、ソウルで日韓条約の批准書交換式典が開かれ、戦後初めて韓国内で君が代が演奏された。普段は冷静な椎名もこの日は顔を上気させて韓国首脳と固い握手を交わした。日韓国交正常化を成し遂げた椎名悦三郎は一躍、名外相として内外にその名を高めた。


当時の緊迫した交渉過程が伝わる内容です。すでに両国間の請求問題は当時の条約で取り決められていることなどはしっかりと事実を認識する必要があります。北朝鮮一辺倒の政党の院外の反対デモと呼応して徹底抗戦とは隔世の感がありますね。

椎名悦三郎氏の粘り強くも交渉の勘所をつかんだ対応には、政治家としてあるべき姿が打ち出されています。
今の国会議員でこれだけの仕事をする人はどれだけいるのでしょうか。
posted by 飯沢ただし at 00:28| 岩手 ☁| Comment(0) | My Diary  【ふつうの日記】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする