高校の同級生である稲辺君が急逝した。
痛恨の極みである。
出張先の室根町でにわかに体調を崩し、救急車で気仙沼公立病院に搬送されたが帰らぬ人となってしまった。
脳出血だったそうだ。薄れゆく意識の中で稲辺君は何を思っていたのか、想像するだけでも辛すぎる。
今はただただ安らかなる冥福をお祈りしたい。
稲辺君とは同じクラスになったことはなかったが、互いに何か惹かれるものがあったのか、特にサッカー部に移籍してからはラグビー部とは間近で練習していたので会えば声を掛け合う仲であった。思い起こすのは2年時に生徒会役員の選出でなかなか立候補者が揃わず、学年で全体集会を開いた時があった。集会の趣旨とは関係ない話なのに硬式野球部を退部したばかりの彼に、同部の同級生から「戻ってきてくれ。」との意見が相次いだ。それほど稲辺君を必要としていたのだろう。ラグビー部にもサッカー部に入る前に2日ほど体験入部したこともあった。また、3年時のクラスマッチで剣道で私と対戦することになり、接戦で彼が負けた時の口惜しそうな表情は今でも憶えている。会うたびにしばらく経ってからも口惜しいと私に言っていた。
私との関係はむしろ高校を卒業してからである。長男であった彼が一関にもどり急遽市議会議員選挙の補欠選挙に立候補することとなり、市長選挙と同日選挙であったが、見事当選。すでに県議となっていた私もお祝いに駆け付けた。私の2回目の選挙の時には今度は稲辺君が応援に来てくれた。当時は東磐井選挙区だったので有権者は別々であったが、市議会で経験したことを率直に訴えてくれた。「手練手管で議会を支配するような旧態然としたやり方には反対だ。若い我々が風穴を開けよう!」彼らしい言い回しだった。その後も、互いに選挙時はエールを送りあう仲となった。
市議会議員から一関体育協会の事務局長に仕事が変わった。日体大出身の彼には天職となったようだ。「飯沢よ。俺はこっちの方が合ってるよ。仕事が楽しくてしょうがない。」といつも言っていた。「おもせぐねぜこともたまにはあるけどよ。やるしかねぇのさ。」愚痴はこぼさずいつも前向きだった。頼みごとをすると即答で「任せろ!」実に頼りになる男だった。Uドームで行事がある時は必ず事務室に寄って互いに近況報告をしたものだ。電話で体協の新年会の挨拶依頼をされたのが最後となってしまった。新年会では次の予定が入っていたためゆっくりと話もできなかった。残念でならない。
こんないい男があまりにも早く逝ってしまうとは世の不条理を嘆いても嘆きれない。来年は岩手国体、5年後には東京オリンピックが開催される。地元体協が果たす役割の正に要となる人物だったのに。本人が一番無念だったはずだ。
11日に挙行された葬儀では、同級生の佐藤敏彦君(小中高の同級生)と勝浦伸行君(高校サッカー部同級生)が弔辞を捧げた。とても心に沁みる内容であった。同級生も大勢参列し、稲辺君の急逝を悼んだ。体協の佐山会長は稲辺君を失った悲痛の大きさに嗚咽を繰り返し、用意していた弔辞を読むことが出来ずに途中で代読してもらったほどだった。
稲辺君を失った悲しみは簡単には癒すことができそうもない。昨晩も悪夢を見て夜中に起きてしまった。ただご家族の悲しみはどれほどのものか心中察するに余りある。最愛の奥様やご子息がこれから生活していくうえで我々が何らかの形で支援していくことが彼の最大の供養になると思って心に刻んで行動していかねばならないと思う。
稲辺君。君と培った友情は忘れない。
これまで本当にありがとう。天国から変わらぬ笑顔で見守って下さい。さようなら。