選挙染めるバズり経済 収入6000万円迷惑系YouTuber当選
【日本経済新聞電子版 2025年3月17日 2:00】
「歴史上初めて誰もが携帯電話を使うだけで、自分の考えを国民に納得させ、政治家になる力を手に入れた」。2024年6月の欧州議会選挙でキプロスから当選したフィディアス・パナヨトゥ氏(24)は12月、議場で訴えた。
「10日間空港で無料で暮らしてみた」といった動画で数百万回の再生数を稼ぐユーチューバーだった。日本旅行中の23年に新幹線やバスに無賃乗車を繰り返す動画で物議をかもし、JR九州が被害届を出す騒ぎに発展した。
パナヨトゥ氏はSNSを駆使して欧州議会選に当選した
選挙戦では上半身は背広に3本のネクタイ、下半身は下着でテレビに出演したり、キプロスを縦断する動画を配信したりと型破りな行動で耳目を集めた。投票日の数週間前には投票先の世論調査で2%ほどだったのに、尻上がりに支持を伸ばし20%近くの得票を果たした。
欧州議会では無所属で活動し、欧州委員会の官僚主義などを動画で批判する。最大会派・欧州人民党の幹部は「新世代ポピュリストだ。彼と同じ行動を起こす若者が増えれば民主主義は危うくなる」と眉をひそめる。
世界中でSNSが選挙の信頼・公正を揺るがす。24年1月の台湾総統選では頼清徳(ライ・チンドォー)氏の偽音声が投稿された。9月のスリランカ大統領選でトランプ米大統領が特定候補の支持を表明する偽動画が拡散した。
「アテンションエコノミーと選挙は親和性が高い」。慶応大の山本龍彦教授は指摘する。政治は大衆のアテンションを引きつけ支持を得る。攻撃的な言葉で対立をあおり、構図を単純化して自身の正当性を主張する光景はSNS登場前からあった。
演説を支持者に撮影してもらい「拡散して」と呼びかける政治家も多い。芸能関係などの素材と異なり著作権や肖像権に気を使わなくてもいい点も収益源として政治を扱う配信者には都合がいい。
日本の公職選挙法はマイクを使った演説を午後8時までに限り、ポスターやビラの枚数も制限する。SNSの選挙活動には時間や数量の制限は乏しい。旧態依然の選挙のルールもSNSの負の側面を制御できない一因になっている。
有権者の関心を引きたい政治家、自社サービスに長時間滞在させたいSNS事業者、収益目当ての配信者。互いの利害が結びついて政治がコンテンツ化され、現実の政治を侵食している。
24年は国連開発計画(UNDP)の集計で72の国・地域の37億人が選挙に臨んだ人類史上最大の選挙イヤーだった。25年は日本に男子普通選挙が導入されて100年、女性が参政権を得て80年に当たる。
歴史を重ね成熟したはずの民主主義が日本で、世界で、危機にひんしている。SNSの登場という社会の不可逆の変化の中で、誰がデモクラシーを殺すのか――。
後援会をつくり、街頭演説を定期的に行う。
私のように、このようなやり方しか知らない人たちはオールドファッションと言われる世の中がすぐそこというより、もう来ている。
歴史を重ね成熟したはずの民主主義が危機に瀕している。まさにその通り。正直者が馬鹿を見るような世の中になってしまってはおしまいだ。
2025年03月17日
2025年03月15日
大船渡線ダイヤ改正
3月中旬の週末は県庁の来年度人事の発表とJRのダイヤ改正が発表される恒例の時期です。
来年開業100周年を迎える大船渡線なのですが、上りと下りが一本づつ減少し、なおかつ一ノ関駅発の最終列車が21時15分発から20時35分に繰り上げ!これは飲み会が一次会の最後まで全うできない可能性があり、大事件です。これでは利用者は増えません。

私も利用した通学列車、摺沢駅を起点にした一ノ関行きの上り列車は始発が5時52分発、次が6時44分発になり、6時30分発よりも14分遅くなっています。この14分の差は大きいですね。私が高校生の頃は6時36分発でした。
さて、手持ちの時刻表で今昔比較をしてみると、

昭和39年版では上り列車が急行を含めても13本あります。(今年はわずか9本)
そして赤囲みの千厩駅発の上りの通勤通学列車があることに驚き!摺沢駅6時55分です。これは格段に嬉しい時間帯です。千厩駅発は現在は始発便になっています。
そして今からさかのぼること85年前の昭和15年の大船渡線ダイヤ。


摺沢駅を7時03分発で一ノ関駅着が7時58分着。なんと学生にとって効率的なダイヤ編成です。
お気づきのように柴宿駅、猊鼻渓駅、岩の下駅はまだありません。
一日の本数は下り8本に上りが9本。本数からすると結局昔に戻ったということなんでしょうが、貨物列車もかなり運行してたはずです。当時はもちろん蒸気機関車だったので今よりは運行コストが高かったかもしれません。
人口が減るということはいろいろなところに影響が出てきますね。
来年開業100周年を迎える大船渡線なのですが、上りと下りが一本づつ減少し、なおかつ一ノ関駅発の最終列車が21時15分発から20時35分に繰り上げ!これは飲み会が一次会の最後まで全うできない可能性があり、大事件です。これでは利用者は増えません。

私も利用した通学列車、摺沢駅を起点にした一ノ関行きの上り列車は始発が5時52分発、次が6時44分発になり、6時30分発よりも14分遅くなっています。この14分の差は大きいですね。私が高校生の頃は6時36分発でした。
さて、手持ちの時刻表で今昔比較をしてみると、

昭和39年版では上り列車が急行を含めても13本あります。(今年はわずか9本)
そして赤囲みの千厩駅発の上りの通勤通学列車があることに驚き!摺沢駅6時55分です。これは格段に嬉しい時間帯です。千厩駅発は現在は始発便になっています。
そして今からさかのぼること85年前の昭和15年の大船渡線ダイヤ。


摺沢駅を7時03分発で一ノ関駅着が7時58分着。なんと学生にとって効率的なダイヤ編成です。
お気づきのように柴宿駅、猊鼻渓駅、岩の下駅はまだありません。
一日の本数は下り8本に上りが9本。本数からすると結局昔に戻ったということなんでしょうが、貨物列車もかなり運行してたはずです。当時はもちろん蒸気機関車だったので今よりは運行コストが高かったかもしれません。
人口が減るということはいろいろなところに影響が出てきますね。
2025年03月14日
予算特別委員会より
今回の予算特別委員会はいつになく張り切って質問しております。
本会議場での質問が制限されていることもあり、エネルギーが貯まってきたのかもしれません。執行部側はどう思われているか分かりませんが😃
本日まで総務部、ふるさと振興部、ILC推進局、保健福祉部、医療局、商工労働観光部の部局審査にて手を上げました。
来週も農林水産部の農業部門と林務部門、県土整備部でも質問を用意しております。

本日は、昨日行われた医療局の審査の内容を岩手日日紙が詳しく取り上げてくれたので、内容について解説します。
県立病院の経営は今日まで基幹病院(二次医療圏ごとに設定されている病院、両磐一関地区でいうと磐井病院)が収益を上げて、地域病院が苦戦している部分をカバーするという図式で採算の帳尻を合わせていました。その上一般財源から200億超が投入されています。
しかし、今年度の決算見込みは78億円の赤字を見込んでいますが、今までとは中身が異なり、中央病院をはじめ基幹病院が軒並み赤字となる結果となりそうなのです。こうした図式は私にとっても初めての経験であり、おそらく関係者の中でも激震が走ったと推察します。
こうした異常事態から立て直すのは容易ならざるものがあり、基本的な立て直し策を開示することを求めました。
熊谷正信経営管理総括課長は、「地域連携による入院患者の受け入れ、病床見直しやエネルギーコスト削減、費用の効率化といった収支両面の取り組みは不断に進めていく。高額薬のコスト削減についても見直していく」と述べました。
本県だけでなく全国の公立病院も同様の状況にあり、この原因は診療報酬改定が主たる要因となっています。あまりに影響が大きいということで総務省では特別な起債制度設計し、本県においても「資金手当債」の発行し、キャッシュフローを補うことを予定しています。
それにしても、机上でも容易ならざるのに現場まで浸透するには相当なエネルギーが不可欠であるので、私からも新しい県立病院の経営委計画初年度(2025〜2030)に当たることから徹底した協力を得られるようにと意見を述べました。
千厩病院に関しては、来年度から地域包括医療病棟を新たに設置することから医療体制について問いただしたところ、診療科として呼吸器、循環器内科の医師2名を増員するとの答弁がありました。
県立病賓は厳しい経営環境が続きますが、小原医療局長、熊谷総括課長の不退転の決意が滲んだ答弁でしたので、ぜひとも頑張って欲しいと思います。
本会議場での質問が制限されていることもあり、エネルギーが貯まってきたのかもしれません。執行部側はどう思われているか分かりませんが😃
本日まで総務部、ふるさと振興部、ILC推進局、保健福祉部、医療局、商工労働観光部の部局審査にて手を上げました。
来週も農林水産部の農業部門と林務部門、県土整備部でも質問を用意しております。

本日は、昨日行われた医療局の審査の内容を岩手日日紙が詳しく取り上げてくれたので、内容について解説します。
県立病院の経営は今日まで基幹病院(二次医療圏ごとに設定されている病院、両磐一関地区でいうと磐井病院)が収益を上げて、地域病院が苦戦している部分をカバーするという図式で採算の帳尻を合わせていました。その上一般財源から200億超が投入されています。
しかし、今年度の決算見込みは78億円の赤字を見込んでいますが、今までとは中身が異なり、中央病院をはじめ基幹病院が軒並み赤字となる結果となりそうなのです。こうした図式は私にとっても初めての経験であり、おそらく関係者の中でも激震が走ったと推察します。
こうした異常事態から立て直すのは容易ならざるものがあり、基本的な立て直し策を開示することを求めました。
熊谷正信経営管理総括課長は、「地域連携による入院患者の受け入れ、病床見直しやエネルギーコスト削減、費用の効率化といった収支両面の取り組みは不断に進めていく。高額薬のコスト削減についても見直していく」と述べました。
本県だけでなく全国の公立病院も同様の状況にあり、この原因は診療報酬改定が主たる要因となっています。あまりに影響が大きいということで総務省では特別な起債制度設計し、本県においても「資金手当債」の発行し、キャッシュフローを補うことを予定しています。
それにしても、机上でも容易ならざるのに現場まで浸透するには相当なエネルギーが不可欠であるので、私からも新しい県立病院の経営委計画初年度(2025〜2030)に当たることから徹底した協力を得られるようにと意見を述べました。
千厩病院に関しては、来年度から地域包括医療病棟を新たに設置することから医療体制について問いただしたところ、診療科として呼吸器、循環器内科の医師2名を増員するとの答弁がありました。
県立病賓は厳しい経営環境が続きますが、小原医療局長、熊谷総括課長の不退転の決意が滲んだ答弁でしたので、ぜひとも頑張って欲しいと思います。
2025年03月11日
14回目の3.11
今年も東日本大震災追悼式は盛岡市内で開催され、出席してまいりました。

私は過去に野田村で開催された県主催の追悼式を除いては全出席です。(急な降雪による悪天候のため集合場所の盛岡市に約束の時間に着けなかったため断念したもの)
今年は県立大槌高校の阿部豊さんが、これからの震災の伝承について自らの考えを発表されました。阿部豊さんが言うように14歳以下の人は震災の記憶はない訳で、時間は物理的に冷酷に刻まれていることを実感しました。自分の中では震災の記憶がは鮮明すぎて逆に時間経過については疎かになっています。
貴重なこれまでの時間の流れの中で私の中で後悔していることがあります。それは被災地の産業振興についてです。
震災発災時からお隣の陸前高田市を訪問し、当時の戸羽市長とよく意見交換をしました。市役所は生活相談で手いっぱいだろうから、地域の産業振興については県を引っ張り出して使いまわすぐらいな方がいい。振興局を広域振興局に再編したのは産業振興の先端基地という意味合いがあるのだから躊躇なく相談してほしい旨を何度も伝えました。
その後の対応については市の独自な考え方もあり、私は住田町という林産材を大事にしている後背地を活用した自然エネルギー基地などもいかがかと提案しましたが、なかなか既存の考え方から突き抜けたダイナミックなところまで実行するには行き着きませんでした。
当時から人口の流出が一番の心配事であり、やはり震災地に新しい産業を作っていかないとという私なりの危機感でした。
しかし、国の産業振興への主たるメニューはグループ補助金であり、既存産業の維持が目標であったので、そうした余裕ある暇もなかったのも事実です。
しかし、こうした非常時にしかできないもの、国の実証実験場であったり、もっとやれることはありました。そこは広域で考えられる県こそが出番だったはずと思います。しかし、県は一切そういう野心的な考えを実行するにはほとんど至りませんでした。それどころかDIOジャパンなど質の悪い会社に傾倒し、被災地の足を引っ張ることになった事案もありました。
確かに、一部は以前よりも前進した例もありますが、この間の被災地の人口の社会減に歯止めがかからないことが結果として示しています。
今日も達増知事の式辞の中には産業振興がいかにも県が先導している雰囲気を出しています、現実に立ち返って反省するほうが先と私は思うのです。
これからもまだ一人暮らしの方の見守りや、継続して行うことはたくさんありますが、やはり暮らしの元である生活の糧を地域でいかに得られるかはもっと腰を入れてやるべき事と思います。

私は過去に野田村で開催された県主催の追悼式を除いては全出席です。(急な降雪による悪天候のため集合場所の盛岡市に約束の時間に着けなかったため断念したもの)
今年は県立大槌高校の阿部豊さんが、これからの震災の伝承について自らの考えを発表されました。阿部豊さんが言うように14歳以下の人は震災の記憶はない訳で、時間は物理的に冷酷に刻まれていることを実感しました。自分の中では震災の記憶がは鮮明すぎて逆に時間経過については疎かになっています。
貴重なこれまでの時間の流れの中で私の中で後悔していることがあります。それは被災地の産業振興についてです。
震災発災時からお隣の陸前高田市を訪問し、当時の戸羽市長とよく意見交換をしました。市役所は生活相談で手いっぱいだろうから、地域の産業振興については県を引っ張り出して使いまわすぐらいな方がいい。振興局を広域振興局に再編したのは産業振興の先端基地という意味合いがあるのだから躊躇なく相談してほしい旨を何度も伝えました。
その後の対応については市の独自な考え方もあり、私は住田町という林産材を大事にしている後背地を活用した自然エネルギー基地などもいかがかと提案しましたが、なかなか既存の考え方から突き抜けたダイナミックなところまで実行するには行き着きませんでした。
当時から人口の流出が一番の心配事であり、やはり震災地に新しい産業を作っていかないとという私なりの危機感でした。
しかし、国の産業振興への主たるメニューはグループ補助金であり、既存産業の維持が目標であったので、そうした余裕ある暇もなかったのも事実です。
しかし、こうした非常時にしかできないもの、国の実証実験場であったり、もっとやれることはありました。そこは広域で考えられる県こそが出番だったはずと思います。しかし、県は一切そういう野心的な考えを実行するにはほとんど至りませんでした。それどころかDIOジャパンなど質の悪い会社に傾倒し、被災地の足を引っ張ることになった事案もありました。
確かに、一部は以前よりも前進した例もありますが、この間の被災地の人口の社会減に歯止めがかからないことが結果として示しています。
今日も達増知事の式辞の中には産業振興がいかにも県が先導している雰囲気を出しています、現実に立ち返って反省するほうが先と私は思うのです。
これからもまだ一人暮らしの方の見守りや、継続して行うことはたくさんありますが、やはり暮らしの元である生活の糧を地域でいかに得られるかはもっと腰を入れてやるべき事と思います。
2025年03月10日
3.10
ようやく大船渡市の山林火災が鎮圧。避難指示も全地域解除になりました。
これからり災証明手続きやら、仮住居の決定やら次の課題が出てきますが、まずは災害に一定の区切りがついたことに胸をなでおろしております。鎮火に至るまで消火活動がまだ継続されており、活動に当たっているすべての関係者の皆様に感謝を捧げます。
本日は東京大空襲の日。当時のことを経験した方々も少なくなってきており、命が目の前に晒される恐怖を伝えることも困難になってきたと報道されていました。B29のエンジン音がどれだけの恐怖を感じたことでしょう。
戦争といえば、司馬遼太郎の「坂の上の雲」のNHK再放送が昨日最終回を迎えました。
二百三高地、奉天会戦は以前は見逃していたので興味深く観させてもらいました。

以前観た日本海海戦はもっと尺が長く迫力があった印象でしたが、厳密な闘いのシーンはそれほど長くなかった感じです。

下瀬火薬と伊集院信管について、この再放送を機に勉強しました。

Z旗に関しても東郷平八郎がトラファルガー海戦の信号文「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」に倣ったことも知ることとなりました。
秋山真之が帰国後に「わしらの戦いは社会の役に立ったのだろうか。」の自問自答する場面はいろいろな思いが私も心をよぎりました。
日露戦争で失った敵味方の命のことを思えばこそです。
世界の帝国主義の流れは二度の世界大戦を経て、日本も大きな歴史の渦の中に巻き込まれることになります。
いまだに収まらぬ地域の紛争。人類の希求する平和というゴールはどこまで歴史を学べば辿りつくことができるのでしょうか。
これからり災証明手続きやら、仮住居の決定やら次の課題が出てきますが、まずは災害に一定の区切りがついたことに胸をなでおろしております。鎮火に至るまで消火活動がまだ継続されており、活動に当たっているすべての関係者の皆様に感謝を捧げます。
本日は東京大空襲の日。当時のことを経験した方々も少なくなってきており、命が目の前に晒される恐怖を伝えることも困難になってきたと報道されていました。B29のエンジン音がどれだけの恐怖を感じたことでしょう。
戦争といえば、司馬遼太郎の「坂の上の雲」のNHK再放送が昨日最終回を迎えました。
二百三高地、奉天会戦は以前は見逃していたので興味深く観させてもらいました。

以前観た日本海海戦はもっと尺が長く迫力があった印象でしたが、厳密な闘いのシーンはそれほど長くなかった感じです。

下瀬火薬と伊集院信管について、この再放送を機に勉強しました。

Z旗に関しても東郷平八郎がトラファルガー海戦の信号文「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」に倣ったことも知ることとなりました。
秋山真之が帰国後に「わしらの戦いは社会の役に立ったのだろうか。」の自問自答する場面はいろいろな思いが私も心をよぎりました。
日露戦争で失った敵味方の命のことを思えばこそです。
世界の帝国主義の流れは二度の世界大戦を経て、日本も大きな歴史の渦の中に巻き込まれることになります。
いまだに収まらぬ地域の紛争。人類の希求する平和というゴールはどこまで歴史を学べば辿りつくことができるのでしょうか。
2025年03月05日
今日の総括質疑
今日から令和7年度の県予算を審査する予算特別委員会が始まり、初日は会派を代表しての総括質疑でスタートです。
本日の見せ場は16時から始まりました。いわて新政会の吉田敬子委員が令和7年度県の目玉であるジェンダーギャップ解消について質問。看板施策と言いながら事業は例年行われているものの焼き直し、さらに組織体制も先進地が積極的に問題解決に目に見える形で再編しているのに本県は従来のまま、これでは効果が期待できないとバッサリと斬り捨てました。指摘は的を得ているので答弁に窮しており、県の本気度が問われることが浮き彫りに。
さらに、次は我らがいわて県民クラブ・無所属の会を代表して質問にたったハクセル美穂子委員。本日は袖口がレース状になった城みちる風のブラウスを下に着こんで気合十分。予算の編成のあり方について、以前から議会で指摘をされている知事の政務秘書のあり方を問題提起。需要がある女性デジタル人材育成事業には予算を増やさないで、この財政難の折に知事の政務秘書は温存されていいのか。
知事は淡々と答弁すればいいものを、この種の問題についてはクレションドヒートアップ。戦後の右傾化を防いできたなどと論理の大飛躍まで飛び出すあたりは何かあるのかと勘ぐってしまいます。
この女性委員お二人は質問内容をしっかりと精査して、事業の効果を質し、自分の考えを真正面に述べたのはとても良かったと思います。
執行権におもねるのではなく、さわやかに自説を展開する。これこそ二元代表制のあり様です。
財政難だからこそ、事業効果を上げるよう予算配置をするのは行政の役目。そこに矛盾があるのなら躊躇なく指摘、改善を迫るのは議員の役目です。なぜなら予算の原資は県民の税金であることに他ならないからです。
明日からは部局審査が始まります。私も委員の一員ですのでしっかり議論してまいります。
【今日の失敗】
帰りの新幹線で政務秘書の件を検索し、佐藤正春議員の過去の質問をチェックしていたら夢中になり、駅を一つ乗り越してしまいました。仙台まで行かなかったのでとりあえず良しとします(苦笑)
本日の見せ場は16時から始まりました。いわて新政会の吉田敬子委員が令和7年度県の目玉であるジェンダーギャップ解消について質問。看板施策と言いながら事業は例年行われているものの焼き直し、さらに組織体制も先進地が積極的に問題解決に目に見える形で再編しているのに本県は従来のまま、これでは効果が期待できないとバッサリと斬り捨てました。指摘は的を得ているので答弁に窮しており、県の本気度が問われることが浮き彫りに。
さらに、次は我らがいわて県民クラブ・無所属の会を代表して質問にたったハクセル美穂子委員。本日は袖口がレース状になった城みちる風のブラウスを下に着こんで気合十分。予算の編成のあり方について、以前から議会で指摘をされている知事の政務秘書のあり方を問題提起。需要がある女性デジタル人材育成事業には予算を増やさないで、この財政難の折に知事の政務秘書は温存されていいのか。
知事は淡々と答弁すればいいものを、この種の問題についてはクレションドヒートアップ。戦後の右傾化を防いできたなどと論理の大飛躍まで飛び出すあたりは何かあるのかと勘ぐってしまいます。
この女性委員お二人は質問内容をしっかりと精査して、事業の効果を質し、自分の考えを真正面に述べたのはとても良かったと思います。
執行権におもねるのではなく、さわやかに自説を展開する。これこそ二元代表制のあり様です。
財政難だからこそ、事業効果を上げるよう予算配置をするのは行政の役目。そこに矛盾があるのなら躊躇なく指摘、改善を迫るのは議員の役目です。なぜなら予算の原資は県民の税金であることに他ならないからです。
明日からは部局審査が始まります。私も委員の一員ですのでしっかり議論してまいります。
【今日の失敗】
帰りの新幹線で政務秘書の件を検索し、佐藤正春議員の過去の質問をチェックしていたら夢中になり、駅を一つ乗り越してしまいました。仙台まで行かなかったのでとりあえず良しとします(苦笑)
2025年03月03日
遠ざかるアメリカの信用
大船渡市の林野火災は延焼が続き2100haまで広がっています。
見守るしかないもどかしさは如何ともしがたいものがあります。一刻も早い鎮圧がされることを祈っております。
今日は宮城県議の守屋守武氏と宮城県議会議長の高橋伸二氏からお見舞いの電話を頂戴しました。
私からはいち早く小野寺五典自民党政調会長に大船渡入りをして頂き、災害対応をしてもらったことに感謝を申し上げました。守屋氏からは避難されている方から自宅の状況を知りたいとの要望を受けて中谷元防衛大臣に調査を依頼されたと聞きました。本当にありがたい限りです。
さて、今や毎日報道されているウクライナ大統領とアメリカ大統領の会談が酒場の言い合いの様相になり、私はとても落胆しております。
アメリカという国は寛容と包摂の精神で自由主義国の代表として、度量を示す国という常識はもう過去のものになったようです。かつて映画アラバマ物語等で見られた良識ある国の風土はどこへ行ってしまったのでしょう。これでは世界の宗主国としての信用は失うことになってしまうでしょう。誠に残念な会談となってしまいました。
見守るしかないもどかしさは如何ともしがたいものがあります。一刻も早い鎮圧がされることを祈っております。
今日は宮城県議の守屋守武氏と宮城県議会議長の高橋伸二氏からお見舞いの電話を頂戴しました。
私からはいち早く小野寺五典自民党政調会長に大船渡入りをして頂き、災害対応をしてもらったことに感謝を申し上げました。守屋氏からは避難されている方から自宅の状況を知りたいとの要望を受けて中谷元防衛大臣に調査を依頼されたと聞きました。本当にありがたい限りです。
さて、今や毎日報道されているウクライナ大統領とアメリカ大統領の会談が酒場の言い合いの様相になり、私はとても落胆しております。
アメリカという国は寛容と包摂の精神で自由主義国の代表として、度量を示す国という常識はもう過去のものになったようです。かつて映画アラバマ物語等で見られた良識ある国の風土はどこへ行ってしまったのでしょう。これでは世界の宗主国としての信用は失うことになってしまうでしょう。誠に残念な会談となってしまいました。
2025年02月28日
大船渡市における山林火事への対応
大船渡市で大規模な山林火災が発生しました。お亡くなりになられた方には心からご冥福を申し上げ、被災されている市民の方々にはお見舞い申し上げます。災害現場で懸命な活動をされておられる皆様方には事故に気をつけての活動をお願い致します。

26日の本会議中、上原康樹議員の一般質問が後半にさしかかった頃、議長席にいた私は左側の執行部席が少し動きがあったのを察知し、議会事務局長に確認していたところ、2分後くらいに事務局長からメモが差し込まれました。
大船渡市で新たな大規模な山林火災(昨日までの綾里、小友地区は鎮圧されていた)が発生し、質問の途中ではあるが、本会議を中断を求める内容。即座に私は休憩を宣じました。
実は午前中に工藤議長とは自衛隊への派遣要請等が必要な災害が起こった場合は本会議を止めることも想定しなければと打ち合わせをしたばかりでした。
一昨日の流れは、議長が議長室で新たな火災発生を知る⇒住家に燃え移ったているのを映像で目視確認⇒迅速な県執行部の本部員会議が必要となることを想定⇒県執行部と確認作業⇒本会議の暫時休憩することを確認、決定⇒メモが差し込まれる
工藤議長に危機管理意識がなければ成し得ない対応でした。その後県は本部員会議を設置。翌日には県議会も災害対策連絡本部を設置したところです。
大船渡市の林野火災はすでに1200haが焼失したと発表され、まだ延焼中とのことでいずれ行政、議会とも現場の消火活動を見守りつつ事後の確実な手立てを施していかねばなりません。
今回工藤議長の機転でこのように時間ロスなく流れましたが、本会議中に議長が議長席に着座している場合は議員も主要な事務局員も災害の察知、対応は遅れる可能性があるので議会事務局には今後その場合の危機対応を求めたところでした。
何はともあれ一刻も早く鎮静化されることを祈っております。

【2月27日、28日の岩手日報朝刊2面より】
26日の本会議中、上原康樹議員の一般質問が後半にさしかかった頃、議長席にいた私は左側の執行部席が少し動きがあったのを察知し、議会事務局長に確認していたところ、2分後くらいに事務局長からメモが差し込まれました。
大船渡市で新たな大規模な山林火災(昨日までの綾里、小友地区は鎮圧されていた)が発生し、質問の途中ではあるが、本会議を中断を求める内容。即座に私は休憩を宣じました。
実は午前中に工藤議長とは自衛隊への派遣要請等が必要な災害が起こった場合は本会議を止めることも想定しなければと打ち合わせをしたばかりでした。
一昨日の流れは、議長が議長室で新たな火災発生を知る⇒住家に燃え移ったているのを映像で目視確認⇒迅速な県執行部の本部員会議が必要となることを想定⇒県執行部と確認作業⇒本会議の暫時休憩することを確認、決定⇒メモが差し込まれる
工藤議長に危機管理意識がなければ成し得ない対応でした。その後県は本部員会議を設置。翌日には県議会も災害対策連絡本部を設置したところです。
大船渡市の林野火災はすでに1200haが焼失したと発表され、まだ延焼中とのことでいずれ行政、議会とも現場の消火活動を見守りつつ事後の確実な手立てを施していかねばなりません。
今回工藤議長の機転でこのように時間ロスなく流れましたが、本会議中に議長が議長席に着座している場合は議員も主要な事務局員も災害の察知、対応は遅れる可能性があるので議会事務局には今後その場合の危機対応を求めたところでした。
何はともあれ一刻も早く鎮静化されることを祈っております。
2025年02月24日
大船渡線100周年
昨日摺沢駅の話題にちょっと触れたので、私も大船渡線100周年にちなんで思い出を綴ってみます。
私の以前の自宅は摺沢駅から歩いて3分の至近距離にあり、列車が走るレールの軋む音は日常の生活の音の一部でした。蒸気機関車が走っていた頃、ある夏の日、汗まみれになった機関士さんが台所の御勝手口に訪れ、母に水を一杯所望し、ひしゃくで一気においしそうに飲み干した場面は鮮明に記憶しています。
摺沢駅は庭のような存在でした。大船渡線は高校時代に通学で3年間利用するのですが、何といっても摺沢駅にまつわる思い出の方が懐かしく数多くあります。中でも小学生の頃の摺沢駅は利用客が多く、駅前の広場にはバスやタクシーが何台も待機していたものでした。小学校低学年の頃は大東高校の通学生が多く、列車の到着時間と登校時間がかち合うと高校生の人の波にもまれて前に進めず遅刻しそうになったことは何度もありました。高校生は例外なく汗の匂いが凄かった記憶は鮮烈です(女学生も)。駅前子ども会では夏休みの活動で顕彰碑の掃除をしていました。

時は昭和40年代。祖母からチッキを渡され小荷物を引取りに行ったことも何回もあります。荷物は生け花用の生花で、当時の国鉄の駅員さんは不愛想で、いつも面倒くさそうな対応なので子ども心にこの役目は億劫でした。駅の売店にはよく買い物に行き、私は常連で売店のおばさんにはいつもよくしてもらいました。夏の時期は小遣い銭を持つとアイスを買いに走り、高学年になると毎週週間ジャンプを買いに行きました。祖父や父のたばこ、週刊誌、切手など親によく頼まれました。田舎の駅には珍しい噴水式のジュース自販機があり、ちょっとだけ都会の洗練された雰囲気に接した気分になりました。後にコーラの自販機に変わります。駅の待合室には通勤客、高校生、大きな荷物を背負ったしょいこの行商のお母さん、営業マンなどいろいろな人たちが混在していました。自家用車が普及する前なので移動手段は鉄道が主体の時代でした。短期間だけ立ち食い蕎麦をやったときもありました。

貨物列車の引き込み線がまだ残存しており、貨物用の仮置き場があり、そこでよく遊んだ記憶があります。ホームから転落して痛い思いをしたこともありました。三沢高校が決勝再試合のした時にタクシーの運転手さんが仕事そっちのけで真剣にラジオ観戦して一喜一憂していた光景も思い出されます。
昭和40年代は人が多く、活気に満ち溢れていた時代でした。半世紀の時が流れ、いまや摺沢駅は駅員のいない駅になり、隔世の感は否めません。あの頃には戻れませんが、人情に接した摺沢駅の思い出は心の故郷(ふるさと)です。
私の以前の自宅は摺沢駅から歩いて3分の至近距離にあり、列車が走るレールの軋む音は日常の生活の音の一部でした。蒸気機関車が走っていた頃、ある夏の日、汗まみれになった機関士さんが台所の御勝手口に訪れ、母に水を一杯所望し、ひしゃくで一気においしそうに飲み干した場面は鮮明に記憶しています。
摺沢駅は庭のような存在でした。大船渡線は高校時代に通学で3年間利用するのですが、何といっても摺沢駅にまつわる思い出の方が懐かしく数多くあります。中でも小学生の頃の摺沢駅は利用客が多く、駅前の広場にはバスやタクシーが何台も待機していたものでした。小学校低学年の頃は大東高校の通学生が多く、列車の到着時間と登校時間がかち合うと高校生の人の波にもまれて前に進めず遅刻しそうになったことは何度もありました。高校生は例外なく汗の匂いが凄かった記憶は鮮烈です(女学生も)。駅前子ども会では夏休みの活動で顕彰碑の掃除をしていました。

時は昭和40年代。祖母からチッキを渡され小荷物を引取りに行ったことも何回もあります。荷物は生け花用の生花で、当時の国鉄の駅員さんは不愛想で、いつも面倒くさそうな対応なので子ども心にこの役目は億劫でした。駅の売店にはよく買い物に行き、私は常連で売店のおばさんにはいつもよくしてもらいました。夏の時期は小遣い銭を持つとアイスを買いに走り、高学年になると毎週週間ジャンプを買いに行きました。祖父や父のたばこ、週刊誌、切手など親によく頼まれました。田舎の駅には珍しい噴水式のジュース自販機があり、ちょっとだけ都会の洗練された雰囲気に接した気分になりました。後にコーラの自販機に変わります。駅の待合室には通勤客、高校生、大きな荷物を背負ったしょいこの行商のお母さん、営業マンなどいろいろな人たちが混在していました。自家用車が普及する前なので移動手段は鉄道が主体の時代でした。短期間だけ立ち食い蕎麦をやったときもありました。

貨物列車の引き込み線がまだ残存しており、貨物用の仮置き場があり、そこでよく遊んだ記憶があります。ホームから転落して痛い思いをしたこともありました。三沢高校が決勝再試合のした時にタクシーの運転手さんが仕事そっちのけで真剣にラジオ観戦して一喜一憂していた光景も思い出されます。
昭和40年代は人が多く、活気に満ち溢れていた時代でした。半世紀の時が流れ、いまや摺沢駅は駅員のいない駅になり、隔世の感は否めません。あの頃には戻れませんが、人情に接した摺沢駅の思い出は心の故郷(ふるさと)です。
2025年02月23日
プレイバック1970年あの時
昨日、父親の代からずっとお世話になった小崎福雄さんの葬儀があり、何とか法要の席には間に合い、福雄さんの思い出話を話す機会を頂きました。とても悲しいことでしたが、心を込めて話をしました。
その晩、寝床に入ったら父とのことをピンポイントで思い出しました。昼間に話をしたことがきっかけでしょう。
1970年3月、小学校2年生の春休みの頃、祖母を羽田に迎えに行くことが目的で父は私を東京まで連れていってくれた思い出です。


記憶に残る初めての摺沢駅を夜に出発する列車旅。それも仙台からは寝台列車です。ワクワクしない訳がありません。

参考とした時刻表は昭和39年発行の東海道新幹線開通前の復刻版👆です。多少年月は経っていますが、大きくは変わってないはずです。
19時15分大船渡線摺沢駅を急行むろね2号で一ノ関駅まで。一ノ関駅からは同車両は東北本線乗り入れで急行くりこま3号になります。
仙台駅着が21時43分着。仙台駅からは23時25分発、寝台列車北星に乗車して上野駅着が翌朝の6時18分。仙台駅での待ち時間を含めると11時間の往路でした。北星は一ノ関駅も停車しますが、コストと効率を考えた行程になったと推察されます。
上野駅に着くなり、父から便所に連れていかされ、ここで「大」を済ませと命令されました。ところがその「大」専用の便所は10以上も並列にあり、そして各々に10人以上が列をなしている異常な光景でした。そもそも便意はないし異常な光景の恐れをなした少年は「今は出ない・・」と小声で言うのが精いっぱいの父への抵抗。「なんだ!」と怒られました。その後都内の移動中に地下鉄駅の静かな清潔な便所で無事に用は足したのでした。
上野で祖父が懇意にしている田中家を訪問しご機嫌伺い。東京の街には半ズボンの子を発見して驚きました。まさにテレビで観ていたチャコちゃんケンちゃんの世界。こちらはギッチリ下ズボンをはいているのに😖。羽田は夜の到着なので、時間潰しのため東京タワー🗼と後楽園(父はボクシングを観たかったが当日は試合なし)を引き回しです。後楽園ではペラペラの外れ車券のゴミ嵐の異常光景(その2)は鮮烈に記憶しています。田舎では絶対にみることが出来ません。東京タワー🗼では漫画家さんに肖像画を描いてもらいました。
浜松町からはモノレール🚝移動。生まれて初めて下りのエスカレーターに乗りました。便の到着は遅れに遅れて羽田空港での待機時間は長く、馬場と猪木がまだ一緒だった日本プロレスをカラーテレビで観戦。途中で見知らぬ男の子が画面を遮り、父が「ボク、そこどいてくれる」と聞きなれない標準語で、しかも予想もできない「ボク」という単語を父が発したことに驚き!でした。
結局、その晩は急遽上野に宿を取ることになり一泊。当初の予定は夜行で帰る予定だったのだろうか!(そうだったらかなりの弾丸ツアー😵)
翌日は昼頃の上野駅発の急行で一路帰宅路へ。上野駅では、ばあさんが私の手を放して一人で乗り場へ行ってしまい、私は上野駅で迷子となることに。かなりの時間を構内をさ迷っていて捜していた父にグイっと手を引かれ無事に列車に間に合いました。危なく私は誰かに攫われて海外に売り飛ばされるところでした。当時は始発となればホームに入線する時間が早くて、席の争奪戦が繰り広げられて時代なので出発まで余裕がありました。
帰りは常磐線経由だと思いますが定かではありません。車中にばあさんから香港のコインをもらいました。初めての海外の貨幣に触れた瞬間です。今でも大事に保管しています。右側のコインはエリザベス女王以前のジョージ6世ですから古いものです。

ところが残念ながら不思議なことに東京で何を食べたか一切記憶がありません。
以上55年前の父との思い出に残る上京の旅でした。今では懐かしい直角の椅子に12時間以上も座る旅はもう日本ではできません。
この旅以降1979年の3月まで上京の機会はありませんでした。ゆえに匡少年の非日常のオンパレードだったこの記憶は鮮明なのです。《終》
その晩、寝床に入ったら父とのことをピンポイントで思い出しました。昼間に話をしたことがきっかけでしょう。
1970年3月、小学校2年生の春休みの頃、祖母を羽田に迎えに行くことが目的で父は私を東京まで連れていってくれた思い出です。


記憶に残る初めての摺沢駅を夜に出発する列車旅。それも仙台からは寝台列車です。ワクワクしない訳がありません。

参考とした時刻表は昭和39年発行の東海道新幹線開通前の復刻版👆です。多少年月は経っていますが、大きくは変わってないはずです。
19時15分大船渡線摺沢駅を急行むろね2号で一ノ関駅まで。一ノ関駅からは同車両は東北本線乗り入れで急行くりこま3号になります。
仙台駅着が21時43分着。仙台駅からは23時25分発、寝台列車北星に乗車して上野駅着が翌朝の6時18分。仙台駅での待ち時間を含めると11時間の往路でした。北星は一ノ関駅も停車しますが、コストと効率を考えた行程になったと推察されます。
上野駅に着くなり、父から便所に連れていかされ、ここで「大」を済ませと命令されました。ところがその「大」専用の便所は10以上も並列にあり、そして各々に10人以上が列をなしている異常な光景でした。そもそも便意はないし異常な光景の恐れをなした少年は「今は出ない・・」と小声で言うのが精いっぱいの父への抵抗。「なんだ!」と怒られました。その後都内の移動中に地下鉄駅の静かな清潔な便所で無事に用は足したのでした。
上野で祖父が懇意にしている田中家を訪問しご機嫌伺い。東京の街には半ズボンの子を発見して驚きました。まさにテレビで観ていたチャコちゃんケンちゃんの世界。こちらはギッチリ下ズボンをはいているのに😖。羽田は夜の到着なので、時間潰しのため東京タワー🗼と後楽園(父はボクシングを観たかったが当日は試合なし)を引き回しです。後楽園ではペラペラの外れ車券のゴミ嵐の異常光景(その2)は鮮烈に記憶しています。田舎では絶対にみることが出来ません。東京タワー🗼では漫画家さんに肖像画を描いてもらいました。
浜松町からはモノレール🚝移動。生まれて初めて下りのエスカレーターに乗りました。便の到着は遅れに遅れて羽田空港での待機時間は長く、馬場と猪木がまだ一緒だった日本プロレスをカラーテレビで観戦。途中で見知らぬ男の子が画面を遮り、父が「ボク、そこどいてくれる」と聞きなれない標準語で、しかも予想もできない「ボク」という単語を父が発したことに驚き!でした。
結局、その晩は急遽上野に宿を取ることになり一泊。当初の予定は夜行で帰る予定だったのだろうか!(そうだったらかなりの弾丸ツアー😵)
翌日は昼頃の上野駅発の急行で一路帰宅路へ。上野駅では、ばあさんが私の手を放して一人で乗り場へ行ってしまい、私は上野駅で迷子となることに。かなりの時間を構内をさ迷っていて捜していた父にグイっと手を引かれ無事に列車に間に合いました。危なく私は誰かに攫われて海外に売り飛ばされるところでした。当時は始発となればホームに入線する時間が早くて、席の争奪戦が繰り広げられて時代なので出発まで余裕がありました。
帰りは常磐線経由だと思いますが定かではありません。車中にばあさんから香港のコインをもらいました。初めての海外の貨幣に触れた瞬間です。今でも大事に保管しています。右側のコインはエリザベス女王以前のジョージ6世ですから古いものです。

ところが残念ながら不思議なことに東京で何を食べたか一切記憶がありません。
以上55年前の父との思い出に残る上京の旅でした。今では懐かしい直角の椅子に12時間以上も座る旅はもう日本ではできません。
この旅以降1979年の3月まで上京の機会はありませんでした。ゆえに匡少年の非日常のオンパレードだったこの記憶は鮮明なのです。《終》